休日に生憎の雨だったが、前から見たかった「転換期の作法」展を清澄白河の東京都現代美術館で見た。(ここはPodcastingもやってる。なぜか毎回ダウンロード時にエラーが頻発するが・・・)
期待していたよりもずっと良かった、というか素晴らしかった。
休日なのに人があまりいないという点も(館は困ると思うが)素晴らしい。

以下、面白かった作品を。
まずイロナ・ネーメトの、座る位置により様々な女性の声を発する巨大ソファ「多機能な女性」。笑い声、あえぎ声、息遣いなど、様々な声がソファのそこここに穿たれた凹みの中から聞こえてくるしかけ。
アルトゥール・ジミェフスキがテル=アヴィヴに移住した元ポーランド人の老人たちに、彼らの記憶の中に残っているポーランドの歌を歌ってもらうビデオ「我らの歌集」。バルトークの民族音楽収集を連想するが、ポーランドという国が歴史上何度も失われた国であること(詳しくは池田理代子の傑作「天の涯まで - ポーランド秘史」を参照のこと)、そこから追われて移住していき、今はイスラエルの国民になっている人々が歌う歌であること、などを考え合わせると、そこに様々な問題性が多層的に含まれたプロジェクトであることが伺い知られ興味深い。
ポーランド人のビデオアーティスト四人組アゾロのビデオ作品「全てやられてしまった?T」「全てやられてしまった?U」は、なんだかモンティ・パイソンにでてくる庭みたいなところに設えられた小さな赤いテーブルを挟んで膝を付き合わせた四人が次にどんなアートをやるかを議論するのだが、思いつくことは、どれも誰かがやり尽くした事ばかり。
「これもやってる?」
「やってる。」
「えーと、そうだな、飛び越えるのは?橋とか」
「やってる。誰かやってる」
「やる前に売る、ってのは?で、結局なにもやらないの」
「それもやってる。おれは見たことある」
…春めいた日差しの下の赤いテーブル上に、タバコの吸い殻ばかり増えていく。
パベウ・アルトハメル「ブルドノ2000」。大きな共同住宅200世帯の窓明かりで「2000」の字を描く大イベントの記録(これは写真パネルのみ)。なんかBフレッツのCMでこういうのあったな。

これは単なる現代アート的な試みを超えて、カトリック司祭が「光」について語る説教場になったり、露店が出たりといった形の住民祭りにまで発展したそうで、「観覧」といった態度を超えて見る者とともに共同作業的に創出せられる現代美術の在り様を地で行く作品となったようだ。
「母さんと父さん」というビデオ作品はアルトハメル本人でなく、その両親の日本旅行を、行ったお父さん自身がハンディカムで撮影したもの。日本での案内役”小川ミホ”さんを「私たちの小さな川」と呼ぶ心優しいお父さん。上野公園を見て「人生に失敗した人たちがスープをもらいに並んでる」「すごいな、この公園にはかなり沢山の人が住んでるね」とか言ったり、大阪のポルノ映画館のポスターを「これはぜひ見るべきだな」と、日本人ではありえないくらいまじまじと撮影するのを見ているうちに、思わず知らぬポーランドの老人が「異国・日本」を切り取る視角に入り込んでしまう。
この視角共有の妙味はパウリーナ・フィフタ・チエルナ「マロシュと一緒に」にもある。知能障害をもつ初老の男が自ら撮影したビデオを見ることで、彼の視覚と世界観を疑似体験するわけだが、障害者テーマのドキュメンタリーがどこまでも彼らを被写体として扱わざるを得ないのに比べて、むしろ素直に見ることができ、楽しめさえする面白い作品だ。
クリシュトフ・キンテラ「もううんざり」はポテチやカールなど日本のスナック菓子が詰め込まれたバッグがモソモソ動きながらチェコ語でボヤく作品。カルビーのポテチにそこらのスーパーの値札がついてるが日本に来た時買ったのか。63円也。
ラクネル・アンタル「ユーロトロプ 理想的な鉢植え植物」は“目に見えないこと保証つき”の栽培専門地中植物。また、「デルモヘルバ 人と共生する植物」は人の皮膚に貼り付かせ、CO2を摂取させるとともに人間は酸素補給をはかるというコンセプトの人工的寄生苔。”3.5ミリ以上の厚さにはなりません”というのが売り文句。仮想のバイオテクノロジーで作られたこれら植物の見本市用販促ポスターとモックアップが作品になっている。
現代美術を見まくっている通人にはひょっとしたら目新しさのないものなのかも知れないが、私くらいのレベルの者には充分面白かった。
これから行く人は、美術館で遊ぶのが好きな人(笑)をつれて二人連れで行くことを勧めたい。
参考link:
「ポーランド現代美術における《ヨーロッパ回帰》」(?)
★究極映像研究所★: ■NMAO:国立国際美術館 『転換期の作法 - ポーランド、チェコ、スロヴァキア、ハンガリーの現代美術 -』
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