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12月 31, 2005

2001年〜2005年までを振り返ってみる

21世紀最初の5年間が終わろうとしている。

2001年〜2005年の5年間は、私個人にとっては「社会人」として生活することを学んだ5年間といえる。2001年2月、5年で大学をようよう卒業した後の私は、院試に失敗した過ちを繰り返すかのように数々の就職活動も水泡に帰し、バイトで働いていた現雇用先に拾われるような形で正社員雇用されたのだった。それから幾星霜、2005年に出向という立場で現在の職場で働くことになるまでの5年間。この間、様々なドタバタや屈折はあったものの、それを語ることはこの文章の主眼ではない。

一方で世情を想起してみたとき、私がまとめに使ってみたいフレーズは「オサマに始まりヨン様に終わる5年間」というものである。(ダジャレ?)

2000年期最初の世界史的重大事が、2001年9月11日に起きたニューヨーク世界貿易センタービルへのテロ攻撃であった事は誰しもが同意することだろう。この事件は、平和な現代文明を謳歌する私たちが、「ここが戦線の単なる後方にすぎないことを忘れる、いや、忘れたふりをし続ける」形で隠蔽してきた矛盾・脆弱性を、文字通り白日の下に引きずり出した。
人々の盲目的に消費へむかう欲望には大きな疑問符が殴り書きされ、豊かさへの根拠なき展望は破壊され、不安と怯えに満ちた現在へ、そして将来に横たわる暗黒へと、人々の視線はゆり戻された。

9.11に引き続くアフガニスタンへの空爆やイラク戦争は、本来そのような戦い方が有効でない分散型ネットワーク組織に対して、旧型の覇権的国民国家が徒に自らの軍事的リソースを消費する祭りとして現出した。結局のところヒュドラの頭をひとつだけ潰す以上のものにはなり得ないことを知ってか知らずか、いつ果てるとも知れない盲目的な戦争が繰り返される。フセイン元大統領の逮捕が、実現するとほぼ同時に忘れ去られていったのがその典型といえる。かの地では、「独裁者を倒せ」というかつての叫びはどこへやら、鮮度の落ちた敵は直ちに過去のものとなり、あたかもつんくプロデュースによるアイドルの生産工場のごとく、新たな「大物テロリスト」が次々とメディアにデビューしては、非人道的な戦争を戦い続けている。

この12月、私は1993年に劇場公開された押井守監督のアニメ映画「劇場版 機動警察パトレイバー2」をやたら何度も見ていた。カンボジアPKO活動が国内で大議論を巻き起こしていた時代に「自衛隊内の一部の決起部隊が首都に現代版の2.26事件を引き起こす」というストーリーのこの映画が製作され公開された事は、'90年代の日本映画史におけるかなり重大な事件と思われるが、そんなことはアニメファンしか言わないかもしれない。
繰り返し見るにつけ、この映画が描いたものは2005年の現在でも衰えなく有効であると感じる。上に引いた「ここが戦線の単なる後方にすぎないことを忘れる、いや、忘れたふりをし続ける」というフレーズは、この劇中に登場する以下のセリフの一部である。

「単に戦争でないというだけの消極的で空疎な平和は、いずれ実体としての戦争によって埋め合わされる・・・そう思ったことはないか?/その成果だけはしっかりと受け取っておきながらモニターの向こうに戦争を押し込め、ここが戦線の単なる後方に過ぎないことを忘れる。いや、忘れた振りをし続ける。そんな欺瞞を続けていれば、いずれは大きな罰が下されると」
「罰? 誰が下すんだ。神様か」
「この街では誰もが神様みたいなもんさ。居ながらにしてその目で見、その手で触れることのできぬあらゆる現実を知る、何一つしない神様だ」

決起部隊の策動を未然に防ぐべく、首都は自衛隊の戒厳状況下に置かれ、夜の東京に戦車部隊と装甲車部隊が続々と乗り入れてくることになるが、一夜明けるとその「戦時モード」はどこへやら、戦闘機械たちは日常的風景の中にすぐさま回収されていく。
雪に閉ざされていく首都の景観の中で、少しばかりの違和感を伴いながら日常へ回収されていく「戦争」・・・。
この映画が12年を経た2005年に到ってもいまだ刺激的である理由は明らかだろう。

社会はその根底に不安を幾重にも重ねながらも、その基本的なふるまいを変えようとすることはない。忘れたふりをし続ける身振りは、最初の砲声が鳴り響くまで、いや、あるいは砲声を聞いたその後でも、わが悦ばしき「総中流社会」で明日を迎えるために、人々が今日も明日も繰り返すビヘイビアであり続ける。

あらゆる危機が日常の中に回収されていく情景の中、私たちは米国農務省の不誠実を見ないふりをしてアメリカ産牛肉で作られた肉を食べようとし、人命よりも利潤を優先するデベロッパーの悪者面を見ないふりをして耐震強度の疑わしいマンションに住み続けようとしている。
その不安や憂いを、韓流ドラマに流す涙や来日スターへの熱狂の中で水に流しながら。

というわけで、
あー、ようやく「オサマに始まりヨン様に終わる」ってフレーズの説明終了。

さて、次の5年間では何か違う流れが生まれてしまうかもしれないという思いもある。
日本人が戦後の経済発展の中で得てきた「総中流社会」という条件が、ここにきて激しく揺さぶりをかけられていると感じるからだ。

2005年に特に印象的にわれわれに意識された概念は「社会の階層化」だといえるだろう。「下層社会」「ネオ階級化」「年収300万円時代」は、特に「SPA!」を中心とする20代〜30代サラリーマン向けメディアの支配的ワードとなった。
「総中流」の時代はかつてそのようであったものとして回顧される対象となりつつあり、多くの若年世代は、自らの給金が安いという万古から枯れない不満を「階層化する社会」という潮流に仮託して語ることを覚えた一年だと思われる。

これが日本社会の基層にどのような形で蓄積されていくか。米国のように、ひとたび自然災害の猛威が襲えばスラム地域に住んでいた下層住民ばかりが千人以上も死んでいく、偉大なる階層社会へと栄光の発展を遂げるのか。
現在の「勝ち組」「負け組」といった浅薄な価値観以上に、階層社会化は深刻である。生まれついてすぐ、構造的に自己の限界を規定されるのが階層社会であり、私たちは自らのアイデンティティの中に「階層」というファクターを常時刻印されながら生きていかなければならないだろう。
この5年は、米国に対してわれわれが持つイメージが、少なくとも文化的側面からいけば憧れの対象だった時代を終え、階層社会をはじめとして内部に深刻な矛盾を抱えた憂鬱な横顔の覇権国家というイメージへと書き換えられていった時代だともいえる。その痕跡は、「ボーリング・フォー・コロンバイン」をはじめとする一連のドキュメンタリー映画から、クリント・イーストウッドの眩いばかりの傑作「ミリオンダラー・ベイビー」でも見ることができる。
そうしたイメージの揺らぎは、国内では反・北朝鮮の流れとあいまって安直なナショナリズムに回収されていく傾向も見受けられるものの、おおむね、どこへ向かうとも知れない不安定感となって動き続けていると思う。
これが我が国の中で、次の5年、どのように形をなしていくのか。

期待と不安を抱きながら、2010年までの次の5年へと、年を越していこうと思う。

6月 09, 2005

死ぬ順番:神→男→金

単なる思い付きのメモ。

人間の思想史上で「死ぬ順番」というのがあり、20世紀がはじまるあたりで「神が死んだ」のであれば、21世紀の初頭である現在は「男が死んだ」と言い得る。
つまり、「男なら」「男らしく」といった表現が陳腐化し、相対化され、概念としての有効性を失いつつある状況である。
次の100年間で今度は「金が死ぬ」状況へ移っていくのではないか。

交換可能な価値の概念として「金」は非常に融通無礙で、「神」や「男」に比べて相対化の時代にあっても生き残る可能性は高いとも考えられる。だが、これまで人間の世界観、社会通念を全て規定してきた「神」や「男」(=性別による役割分担)が崩壊する中、「金」が不老不死の概念として人間を規定しつづけるとはちょっと信じ難い。
「神」の概念に基づく倫理・秩序が崩壊した現在、「金」に替わる価値を人間は創出することができていない。
「金」に世代交代を迫る新たな価値概念を生み出すべき状況に来ているように思う。
やっぱり金を中心にした世界の中では、人間は幸福に暮らせないことが露見しつつある・・と考えるからだ。

2月 19, 2005

「女性はなぜ自分の性を忌避するのか」という件について

昨日の飲みは面白かった。相手はこのときとかわりばえしないが・・2時半くらいまで飲んだかな。
ゴスロリはなぜメイド服風のファッションに行くのかという話から、彼女たちがそのメイド服を思わせるファッションで護持しようとする「少女性」と、秋葉系などの男がメイド服に萌えてる部分とは相当の開きがあるという話、それゆえにゴスロリはメイド服によって女性性を隠匿する方向にむかい男のメイド服好きはアンミラ的な世界にむかうことで、おのおのはメイド風という意匠だけを同じくしつつもその意味を乖離させていくのであるという説。また女の子たちはなぜ少女性を求めるのかという問題から、女の子は女になることがイヤであること、男性から性的対象とみられることを重荷に感じ、それを認めたくないと思ってしまう場合があるのはどうしてかという話まで展開していく。

二人とも見てはいないが、ソフィア・コッポラの「ヴァージン・スーサイズ」という映画があった。
見ていないので中身についてどうこうということはできないのだが、ヴァージンのまま自殺するという少女性の保存行為、それが暗に示している「女になることの拒否」があれだけ広く支持を集めたことからも、女の子は自分の女性という性を受け入れることに抵抗があるのだということは想像可能である。
男は別に積極的に童貞のまま死にたいとか思わないからな〜。「童貞であって何が悪い」という宣言や居直りはあっても。

この抵抗感が社会構造のなせるわざだということは簡単で、それはフェミニズム的視角として重要でもあり決して軽んじるつもりはないが、どうも論が大文字のハナシになるのが、私的には気に入らない。
といって、「やはりそれは月に一度の、自分の中の汚れを排出して小さな死を迎え生まれかわるという独特の性質が働いているのではないか」などという、まるで佐野眞一のような論法(笑)で説明しようとしてみたものの、やはりちょっと全てを言い当てているようにも思えないし、そもそも生理時の女子の出血が「ケガレ」であるという認識自体が民俗的な社会通念の一つであるとも言える。
生理を迎えることが女の子にとって何らかのアイデンティティ的意味を持つのは間違いないのだろうけど、やはりそれは男性には想像の埒外のできごとであるわけで、だからこそ女の子というのは男にとっては不可解で興味深い対象であるのだ。
(そういう意味では、男というのはまったくもって底の浅い、面白みのない生物だと思う)

けっきょく「なぜ男は自分の性を忌避することがなく、女にはその忌避があるのか」という問題の結論は出なかったが、あるいは単純に「男は自分の性を自覚することがなく、女には自覚がある」というだけのことなのかも、と今思った。
「男らしさ」なるものは確かに存在する観念なのだけど、「男性であること」は、意外と男自身には知覚されていないのではないか。だからこそ、フェミニズム的な用語として「セックス」と「ジェンダー」というコトバの区分けが発生してきたのだろう。
女はセックスとしての女性を自覚せざるをえないが、男は「セックスすること」には多大なる興味があるものの「セックス」=「性別」としての男性には驚くほど自覚を持っていない、であるがゆえに女性論の地平が出てくるまで、事実上「セックス」と「ジェンダー」は未分化だったのだ。というか男が考える限り、セックスはジェンダーの中に含まれる一部分でしか有り得なかったのだとも言えるのかも。
って、別にフェミニズムについて勉強したことがあるわけではないので、あるいは語義の捉え方がいちじるしく間違ってるかもしれません。ご了承あれ。

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