5月 17, 2006

坪内祐三著『一九七二 「はじまりのおわり」と「おわりのはじまり」』読了

映画「夜よ、こんにちは」は1978年にイタリアで起きた極左集団のテロ事件を映画化したもので、これはイタリアにおける左派の歴史の分岐点となるものだったが、日本ではその6年前に連合赤軍による「あさま山荘事件」が勃発し、政治の季節の幕引きを行った。この後、日本は消費資本主義の成熟と、繁栄の行き詰まりであるバブル崩壊を経験することになる。

連合赤軍事件と横井さんの帰還、キャロルの鮮烈なTVデビューと情報誌「ぴあ」の創刊。これらの出来事が1972年という年にはいちどきに起きている。この事実をあらためて知るといかに1972年という年が戦後日本にとってモニュメンタルな年であったのかということが知れるのだが、これを回顧的同時代史として書いたのが坪内祐三著『一九七二 「はじまりのおわり」と「おわりのはじまり」』である。

性の問題を革命的自我の中で解決することができず、遠山美枝子のしていた「指輪」問題への追及などから遂には自滅的なリンチに到る連合赤軍事件を語る前半は非常に読ませる。事件のクライマックスともいえるあさま山荘篭城の中で、実行犯・坂口弘がTVに映る「ニクソン訪中」を目撃するシーンは、全編の白眉といえる。
このとき、仲間を殺した事実そのものにより精神的に追い詰められた坂口らは、警察権力に対して彼ら言うところの「殲滅戦」を戦う以外にないと決意を固めていた。その彼らが反米の理論的支柱としていたのが中共と毛沢東主義であった、が…

----------------------
(坂口弘の著書から引いて)この日夜七時のテレビ・ニュースでニクソン米大統領一行の中国訪問の様子を見た。(中略)それは、われわれの武闘路線を根底から覆すショッキングな出来事であった。だが、われわれの未熟な頭はこうした背景を何一つ理解することが出来ず、ただ画面に映るニクソン訪中風景をジッと見詰めるだけであった。

つまり、この時、坂口弘は、自分の革命家としてのアイデンティティを失ってしまったのである。ならば、なぜ、自分たちは、十二名もの同志の命を犠牲にしてしまったのだろう。
----------------------

同時に、ニクソン訪中という政治史的にモニュメンタルな出来事の前に呆然としながら、時代の前面から撤退したのが佐藤栄作であり、彼は自分の意図するスピーチを勝手に解釈して変えてしまう新聞ジャーナリズムと、それにかわるテレビジャーナリズムへの賞賛(それは今の視点から見れば未熟なメディア・リテラシーではある)とともに退陣する。変わって政権を握るのは、やがて後のバブル景気へと繋がる日本列島改造を唱えた田中角栄政権であった。

かくのごとく述べられると、1972年というわずか一年の重要性を認識せずにいられない。
書の後半では、CCRの来日を基点としたロックの来日ブームと頭脳警察、そして矢沢永吉というカリスマとキャロルの登場が語られるが、これはロック史により詳しい人にとっては恐らく私よりずっと心揺さぶられる部分であろう。また、創刊期からの一読者として著者が語る「ぴあ」の創刊の時代的意味というのも非常に興味深いが、あとは本書に触れたときのお楽しみとするべきだろう。1975年誕生の私でも十二分に感銘を受ける一冊。

次は山田昌弘の「希望格差社会」を読むつもり。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

4月 29, 2006

梅田望夫著「ウェブ進化論 - 本当の大変化はこれから始まる」読了

梅田望夫「ウェブ進化論」を読了。随分前に買ってはいたものの、「あちら側の巨大な情報発電所」というような表現がダサいなと感じ、放り出しっぱなしであった。

「サーバサイド」などの業界用語を使用せずに、ここ最近Web発で起きている一連の地殻変動を説明する本である。ゆえにWeb2.0とは何かといったテーマに一定の理解がある向きには新しい発見がある書ではないものの、BlogとGoogleのテクノロジー信奉を述べることで示唆されている(ように思える)「テクノロジーが創出する民主主義」には、既存権力との衝突の種子が含まれていて興味深く思われた。

さて、この書の中で述べられている「総表現社会」は、Web用語でいうところのCGM(Consumer Generated Media)を受けているが、マルチメディアコンテンツに関しては、そのタグ付けの難しさがボトルネックになるだろうと梅田氏は危惧している。

しかし、ここ最近のYoutubeやGoogle Videoに集まる注目や、日本では主にNHK技研が中心となって進められているTVコンテンツへのタギングの研究などから、早晩、映像に関してもけっこうな勢いでCGMの勃興が起きると私はみている。

そのあたりを象徴するのが英BBCのCGM戦略だろう。

http://japan.cnet.com/news/media/story/0,2000056023,20102826,00.htm
BBCがオンライン分野の新戦略「Creative Future」を明らかに - CNET JAPAN

BBCといえばすぐにドキュメンタリー番組が思い浮かぶほど、番組の品質でつとに有名な放送局だ(まあ私などにはモンティ・パイソンをやってた局という方が親しみ深いが)。そのBBCすらも、来るべき映像メディアのCGM現象に向けて自分たちの映像アーカイヴをユーザーに向けて開放することによって自らの価値を証明しようとしている。米ABCがiPod向けに「LOST」「エイリアス」の番組ダウンロード販売をはじめたことよりも、こちらの方が本質的という気がする。ABCのはディストリビューションの問題だが、BBCの試みはコンテンツ創造からディストリビューション(というか、映像コンテンツ間のネットワーキングとでも言おうか)までを貫く動きだからだ。

翻って日本のTV局の場合、妖術師・田中角栄が日本にかけたラスト利権魔術である放送免許制マジックに護られ、コンテンツからディストリビューションに至るルートを地上放送波で独占してきたことが彼らの今をあらしめているといって差し支えないがため、その牙城を突き崩す可能性のあるIPマルチキャストの流れに頑迷なまでに反目するというお寒い現状である。
NHKアーカイヴスを中心にコンテンツアーカイヴとしての生存選択肢を残しているNHKはまだしも、他の民放には明確な将来のビジョンがあるのだろうか。

いや、民放にはまだ、金と人材だけはうなるほどあるのでまだ良い。
結局ろくにコンテンツホルダにもなれず、固い商売である配信経路の敷設だけにしがみついてきたわが業界こそ、現在もっとも心停止に近い場所にいる。本来、米国の同業よりも100倍くらい意識が高くなければ生存不能な状況のはずなのだ。

こちらも参照:

| | コメント (0) | トラックバック (1)

4月 05, 2006

海野弘著「陰謀と幻想の大アジア」読了

海野弘「陰謀と幻想の大アジア」読了。先般読んだ「陰謀の世界史」の流れで読んだ一冊だが、安彦良和のマンガ「虹色のトロツキー」の副読本として読むのに格好の一冊でもある。

「虹色のトロツキー」は満州・建国大学に石原莞爾がトロツキーを講師として招聘しようとしていたという記録に材を得て、ノモンハン事件までの満州を舞台に展開する関東軍の謀略を主軸にした物語だが、ここに当時の多彩なイデオロギーや民族の思想が交錯して交響楽を成す傑作である。
この中に、大連特務機関長安江大佐と海軍の犬塚大佐による、満州ユダヤ人国家創立工作が登場し、「危険なユダヤ人」であるトロツキーを巡る謀略と絡んでくるのだが、このユダヤ人国家設立の陰謀が「陰謀と幻想の大アジア」の劈頭を飾る。

他、出口王仁三郎と大本教の一派による蒙古独立工作や、孫文の説いた「大アジア主義」とそれを日本帝国主義的に読み換えた「大東亜共栄圏」構想など、安彦良和の一連の日本近現代史を扱った作品群を好む向きにはこたえられない一冊ということになるだろう。

著作全体としては、政治と無縁ではありえない学問(この本では主に歴史学)の性質を無視して戦中・戦後と展開してきた結果、アジアを考える日本のアカデミズムの中に紛れもない戦中的なイデオロギーが残留していることの発見が、テーマとしてはより重要である(このテーマでは江上波夫の騎馬民族国家論や、梅棹忠夫の文明史観などが例となっている)。
また、これらアジアを巡る戦前の「陰謀」の歴史をどう私たちは嚥下してゆくべきなのかという問いや、戦後「大アジア」的な想像力を自ら封じるあまり国際的・文明史的な構想力を捨て去った日本人は果たして正しかったのか、という問いなどには感銘を受けさえした。

「陰謀の世界史」よりもぐっと好著だと思う。安彦ファンだけでなく、日本の近現代史に興味のある向きに広くおすすめ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

12月 11, 2005

鹿島茂著「怪帝 ナポレオンIII世」読了

鹿島茂の「怪帝 ナポレオンIII世 第二帝政全史」を読み終わった。

ナポレオンIII世のバッドイメージを決定付けたというマルクスの「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日」を読んでいるわけでも、ユゴーの弾劾作品を読んでるわけでもないが、なんとなくナポレオンIII世にいいイメージはない。
世界史で習うのも、彼はクー・デタで権力を奪取して帝政を復活させたが戦争には弱く、普仏戦争でプロシアにとっつかまって退位したあたり。イギリスに負けたことしか習わないスペインの無敵艦隊と同じで、あんまりたいしたやつという印象を受けないのも仕方あるまい。
しかし同時に第二帝政は19世紀のパリ文化を形作った重要な時代であることも間違いなく、この時代についての知識は持っておきたいところだし、また私が個人的に興味を持っている近代イタリアのリソルジメント史においても、ナポレオンIII世はキー・マンとして登場してくる。

この450ページあまりの評伝の書き出しはこうだ。

「ルパンには甥がいた。その名もルパンIII世!」は、ご存知モンキー・パンチ作の「ルパンIII世」の惹句だが、このルパンをナポレオンに代えて「ナポレオンには甥がいた。その名もナポレオンIII世!」としたとき、案外、この「ナポレオンIII世」も「ルパンIII世」と同工のパロディーだと思ってしまう日本人が多いのではなかろうか。
・・・・という書き出しはかなりひどいが(時折、鹿島茂氏の文章は信じられないくらいダサいことがある)、不安なのはプロローグからルイ=ナポレオンが大統領になるあたりくらいまでである。 陰謀家から大統領に至ると、政治史、経済・産業政策、福祉政策、オスマンのパリ改造、クリミア戦やイタリア統一戦への参戦などと、視点をそれぞれに変えながらナポレオンIII世の治世が語られるのだけど、どの視点からみても面白く、かなり引き込まれた。

特に、ナポレオンIII世という人物が単純な皇帝願望の強い独裁者という見方でとらえきれる人物ではなく、党派同士の乱闘をくりかえす共和派よりもさらにラジカルに労働者福祉、民衆主権を実現させようとした権力者であったというくだりは面白い。

 ここにあげられているように、フランスの社会福祉政策のほとんどは、ルイ=ナポレオンが独裁者の地位につくことによって初めて実行されたものである。それまで、ブルジョワ秩序派はおろか共和派も社会問題よりも政治課題を優先していたので、社会福祉政策のほとんどは議会に提案されても廃案となっていた。怠け者を甘やかしてはいけないというのがその主張だったが、財源の少なさも多分に関係していた。オルレアン家財産の没収は、ルイ=ナポレオンが社会福祉政策の財源を探したあげくに導き出した結論だったのである。(142P)

 ナポレオンIII世はほかにも自らが薫陶を受けたサン・シモン主義的なポリシーに則り、近代的なベンチャー・キャピタルを創設し産業を推進した。これら新進の銀行とロスチャイルド家ら古株銀行との金融戦争は、オスマンのパリ改造とならぶこの本のクライマックスである。
 ナポレオンIII世にたいし様々な手練手管を使って皇妃におさまったウージェニーの教師がプロスペル・メリメと、なんとあのスタンダールであったというような小話も面白い。近代ヨーロッパ史にちょっと興味のある人だったら読んで損はない一冊だと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

12月 04, 2005

A.J.クィネル「パーフェクト・キル」読了

A.J.クィネル著「パーフェクト・キル」読了。
私がこの冒険小説ファンの中に根強い支持を得ているクリーシィ・シリーズの第一作「燃える男」を読んだのは、映画化「マイ・ボディーガード」がきっかけである。
フランス外人部隊の元傭兵クリーシィが、深い心の闇に光をともしてくれた少女のために、彼女を殺した誘拐組織を壊滅に追いやる第一作のストーリーから数年、この第二作もやはり復讐がテーマである。第一作でようやく得られたマルタのゴゾ島での家族生活が、テロリストによる旅客機爆破によって引き破られ、クリーシィは復讐のために家族を作る。孤児院から素養のある少年マイケルを拾い上げ、彼を養子にするためにロンドンの女優を金で雇って偽装妻として、新しい擬似家族を形成するのだ。
その目的は、何年かかるか分からない、ことによると自分の生存中には果たし得ない犯人の探索と復讐を達成するために、養子という後継者を自分と同じ戦闘マシーンに育て上げることである。
・・・という筋はかなり血も涙もない冷徹なものに思われるのだが、これが地中海ゴゾ島の美しい情景と人々の繋がりの中で、また紳士的かつタフな傭兵仲間たちの連帯の中で展開することで、血塗られた復讐の行程が、少年の成長物語に変わり、また擬似的だったはずの家族が徐々に本当の家族に近いものに変わっていくという仕掛けで、なかなか楽しめた。だんだん読んでて「復讐」という当初の動機を忘れてしまいそうになるような、ホットな小説である。
もちろん冒険小説としても面白い。冒頭でクリーシィの家族がまきこまれるパンナム103便爆破事件や、敵となるPFLP-GCのアハメド・ジブリルは実在の事件、人物だ。

なお、作者A.J.クィネルは地中海マルタのゴゾ島に住み、大の日本びいきだったというが、今年の7月に肺ガンで亡くなった。享年65歳というまだ書ける年齢で残念。本作でも、クリーシィは洗い場で体を洗ってきれいな湯をはった湯舟につかる日本式の風呂が大好きで、家にそんな風呂が二つあるという設定になっており、何かそこだけ異様に親近感が湧いた(笑)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

11月 21, 2005

「グロテスク」(★★★)

最近私の体はタバコへの耐性の弱さを露呈しつつあるらしく、ずっと腹がゆるい。
初めて試しに吸ってみたピースメンソールの香料がキツかったのもあるのかもしれないが・・・。

木曜はグループ全社のイベントで久しぶりに大人数の前でしゃべらせてもらったのだが、聴衆のみなさんはこの壇上でえらそうにしゃべってる奴が、まさかうんこがゆるいことに悩んでいるものとは思ってもみなかっただろう。

そんなわけで体が弱っているうえに仕事が忙しい折に桐野夏生を読む・・・これはますますきつい。
しかも「東電OL殺人事件」にモチーフを得、昼は大会社の総合職だが夜は娼婦となる中年の女性が、悲痛なまでに自己を鞭打ち崩壊させていく過程を描いた小説「グロテスク」である。(まあ、実際にはその箇所は筋全体の5分の1程度のものなのだが)
ざっくり言って、非常に暗鬱な気持ちになる一冊であった。

「柔らかな頬」と間をほとんど置かずに「グロテスク」を読んだのだが、スイスイ読み進められるわけでも、読んでいて楽しくなるわけでもない小説なのに不思議と読んでしまうのが面白い。
女性小説という一面はもちろんあるのだろうけど、私にとっては、どちらも死というゴールに向かってまっすぐに・・・あるいは迷走しながら死んでいく魅力的な登場人物が登場すること、また、その物語を傍らにみつつ現世という無間地獄を彷徨う人々が語り部となっていることに惹かれるところがある。

半分以上読まないと、「このままイヤな人間がいやな物語を続けるだけの小説なんじゃねえのか」とやめてしまいかねないが、悪意に満ちた語り手が意外な一面を見せる終盤には正直言ってある種の感動をおぼえた。いや、泣けるとか好きになるような展開ではまったくないんですが。

殺人犯である中国人チャンが自らの手記で「自分は柏原崇に似ていると言われた」と書いているため、裁判の傍聴でその顔を見ようとした語り手が、実際の犯人の顔を見て

ああ、どうしたことでしょう。どこが「柏原崇」なのでしょう。

とか書いてんのには思わず笑った。カギ括弧までつけなくても。

ドストエフスキーだってもう少し笑いがあるぞ、と思わずにいれない重苦しさに満ちた前半にくらべ、後半では戦慄が乱れ飛ぶ暗夜のカーニヴァルとなる展開も、よく練られているなあと思った。しかしまあ体の弱っていたり、仕事に集中しなきゃならんというときに読む小説ではない。

最近読んだのはほかに「日本怪奇小説傑作集1」、石田衣良「LAST」、平井呈一編訳「恐怖の愉しみ 上」など。このところ暗鬱なものばかり読んでいるので、次は久々に冒険小説でも、ということでクィネル「パーフェクト・キル」のつもり。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

10月 30, 2005

伊坂幸太郎著「魔王」(★★)

おお、伊坂の新刊!とばかり、見つけ次第手に取ったが、
中途半端に思わせぶりな小説で、じつに不完全燃焼・・・(-_-)

今回はファシズムがひとつのテーマなのだが、これ、扱い方の難しいテーマではある。ファシズムに抗するという行為はとかく「大衆心理に対する理性の戦い」などといった観念論に走りがちなため、ストーリーとしてのダイナミクスが欠けかねない。ざっくり言っちゃうと、ファシズムを先導する側の大上段のお説教が途中でかったるくなっちゃうのだ。そのファシズムに抗するという営為もそのかったるさの中に回収されてしまいかねず、そうなるともう何と言うかついていけなくなってしまう。
ヴィスコンティの「地獄に堕ちた勇者ども」は徹底的に退廃した美的感覚によってそのかったるさを打破した稀有なファシズム作品といえる。
伊坂幸太郎はいつもどおりの平熱な主人公にある超能力を与えることによってダイナミクスを得ようとしたのかもしれないけど、今回はファシズムものに横たわるワナにからめとられてしまった感じ。うーむ残念。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

10月 07, 2005

日本怪奇小説傑作集

推理モノを読まない創元推理文庫読みとしては、今回の刊行はひさびさの快挙といえるのではなかろうか?

紀田順一郎・東雅夫編「日本怪奇小説傑作集1」のことである。

まだ前半部分しか読んでいないが、ほぼ30年ごとの期間に輩出された和製怪奇小説の傑作短編を3巻に渡って刊行するというこの企画、劈頭を飾る小泉八雲/平井呈一訳の「茶碗の中」からして素晴らしい。

さて茶碗を手に取上げて、ふと関内が何気なく中を見ると、透とおった黄いろい茶の中に、自分の顔でない顔がうつっている。(中略)妖しいものがあらわれたのに関内はほとほと困じて、その茶を捨てて仔細に茶碗の中を改めて見た。茶碗はべつに手のこんだ柄や模様などは一つもついていない、ごくの安茶碗である。関内は有合う別の茶碗をとって、もう一ど茶を汲みかえた。すると、その茶の中にも、また先刻の顔があらわれているのである。そこで関内は、その茶を新しく淹れなおしてもらってふたたびそれを茶碗に注いで見た。見おぼえのない不思議な顔は、やはりその中にもあらわれている。しかもこんどは嘲るような笑を浮べているのである。

この淡々とした怪異描写の中になんともゾーッとした感じがあぶりだされる、まさに古物怪談の名手M.R.ジェイムズに比しても恥じない名編であって、名訳者平井呈一の面目躍如といえる良訳とあいまり、この趣味の人の渇に応える内容ではないかと思う。

その他にも漱石・鴎外から乱歩・夢野、室生犀星や佐藤春夫といった詩人ラインまで、近代文学のそうそうたるメンバーが集っているのがこの大一巻である。
個人的には、日野日出志のマンガもかくやというグロテスクさで一歩長じる画家・村山隗多の小編「悪魔の舌」もさることながら、まさに真打の感すらある谷崎潤一郎の「人面疽」には、大家の筆力を堪能させられた感がある。
以下引用中は活動写真について述べているが、活動というだけに当時はサイレント映画であることを頭に入れた上で読んで頂きたい。

一体、M技師の長い間の経験に依ると、活動写真の映画と云うものは、浅草公園の常設館などで、音楽や弁士の説明を聴きながら、賑やかな観覧席で見物してこそ、陽気な、浮き立つような感じもするが、あれを夜更けに、カタリとも音のしない、暗い室内に映して見て居ると、何となく、妖怪じみた、妙に薄気味の悪い心持ちになるものだそうです。それが静かな、淋しい写真なら無論のこと、たとい花々しい宴会とか格闘とかの光景であっても、多数の人間の影が賑やかに動いて居るだけに、どうしても死物のようには思われず、却って見物して居る自分の方が、何だか消えてなくなりそうな心地がする。中でも一番無気味なのは、大映しの人間の顔が、にやにや笑ったりする光景で、―

 これなどは高橋洋脚本による映画「女優霊」などに繋がっていく怪異ビジョンだと思う。
 古典怪奇小説とは、これまた客のつかなそうな分野なのだが、興味ある方はぜひ読んでみてください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

9月 25, 2005

サム・シェパード「モーテル・クロニクルズ」読了

さいきん映画のことをめっきり書いてなく、実際のところ見る時間もなくて映画とはごぶさたの状態なのだが、ちょっと関連記事ということで、劇作家にして名優・監督でもあるサム・シェパードの自伝的エッセイ集を読み終わったのでその記録など。

サム・シェパードはヴェンダースの「パリ、テキサス」脚本という仕事がもっとも映画界的には有名なのだが、しぶく脇を締める名優としても数々の映画に出ている。私の見た中での最近の仕事ではニック・カサヴェテス監督の泣かせラブストーリー「きみに読む物語」など。言われてみると「あー、いい味の人いた!」と気付く、こういう人こそ一編の映画においては重要である。ほかに「ブラックホーク・ダウン」、「ヒマラヤ杉に降る雪」、私は見ていないが「ソードフィッシュ」「プレッジ」「すべての美しい馬」など。もう公開しているのかよく知らないが最新作は「ステルス」である。

この本「モーテル・クロニクルズ」は、後ろ盾のない一介のドサ周り俳優としてN.Yに出てきたサム・シェパードが、やがて劇作家として身を立てていき、また映画俳優として数々の現場に入りながら、泊まったモーテルの部屋で書き綴られた詩やメモのような短文をファイルしたものとして上梓されている。

印象深いのは、夢遊病を親に心配されたりした幼少期の思い出、自転車を盗んで干上がった水路をLAまで走ろうとした悪ガキ時代のこと、物寂しいアメリカ中西部の荒れ野のほとりでの感覚、そして義母のくも膜下出血にあたって家族全員が経験した不安の描写である。
ふたつめに挙げた小さな自転車泥棒たちの思い出から引こう。

午後中、野山を駆け回って蛇を捜した。それから兄弟のうちの一人が、自転車を干上がった水路に下ろしてそのままロスアンジェルスまで走って行こうと提案した。ぼくは何を言われても「うん、そうしよう」と答えた―ロスアンジェルスまでは少なくとも一〇〇マイルはあるような気がしたのだけれど。
ぼくらはそれから、その巨大なセメントの廊下を何マイルも走り続けた。セメントの継ぎ目にタールで詰め物をした茶色の線を越えるたびに、車輪がはね上がった。その継ぎ目をのぞけば、それはぼくがそれまでに自転車で走ったことのある、最もなめらかで平らな表面だった。
走っていくぼくらの両脇を色々な物が通り過ぎていった。日光で色あせたショットガンの赤い薬莢、オポッサムの死骸、ビールの缶、クルミの殻、キャロブの莢、アライグマと二匹の子アライグマ、ポルノ雑誌の破れたページ、ロープのかたまり、タイヤのチューブ、自転車のホイールキャップ、壜の栓、ひからびたサルビア、釘がついたままの板、切り株、粉々になったガラス、黄色に赤のストライプのゴルフ・ボール、ラグレンチ、女物の下着、テニス・シューズ、ごわごわになった靴下、犬の死骸、ねずみ、宙を舞うトンボ、目を飛び出させた、しなびたカエルの死骸。何マイルも走った後に、大きな長いトンネルのようになった部分の入り口に来た。覗き込むと、向こう側に光は見えなかった。

この部分など、いっかな装飾もなく、ただ目に見えていることを書き綴っただけに過ぎないのに、そこからは行ったこともない中西部の空気と詩情があたかも匂ってくるかのようだ。なんだかつかみどころのない文章もないわけではないのだけど、主に、こうした物象の中の詩を引き締まった文体で描き出す素晴らしい文章が多く、古本屋で100円で購入した本としては破格の感銘を受けた。
都市のよどんだ日常の中に一編の詩がほしくなったとき、カバンの底に思いがけず潜んでいたりすると嬉しい一冊である。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

8月 22, 2005

さいきん読んだ本&マンガ

そんなわけで終電だったり週イチペースで会社泊まったり(先週末は深夜用のセキュリティシステムの解除方法を間違えたらしく、「あなたの行動はすべてモニターされている、出て行きなさい」という、セ○ムの警告メッセージを聞かされました☆)している日々。

来月には誕生日なのだが、去年の誕生日に抱負としてあげた「20代のうちに『失われた時をもとめて』全10巻読破」はかなり遂げられなさそうな感じ。何しろ今現在で6巻・・・。プルーストの一冊は他の本5冊に相当する手ごたえだけに、タイムアップの予感絶大である。

だったら他の本読まなきゃいいんだが、こちらも人間、毎日フランスのブルジョワと貴族の気取りくさった夜会の話ばっかりは読んでらんないわけである。

で、最近読んだ本としては
ジェイムズ・エルロイ「クライム・ウェイヴ」(★★★)
伊坂幸太郎「チルドレン」(★★★★)

まんがは
古谷実「シガテラ」6巻(最終巻)(★★★)
すえのぶけいこ「ライフ」1〜11巻(★★★☆)
よしながふみ「美しい娘たち」(★★★★)

エルロイのは相変わらずの破れた小説と、彼の自伝的ノンフィクションなどが詰められている作品集。中でもアコーディオン弾きのディック・コンティーノがロス市警の陰謀を暴きだす小説「ハリウッド・シェイクダウン」などはかなりのトンデモ話であり、長編だったらかなり面白そうな話なのに短編ゆえの息の短さで唐突感がぬぐえない。フランク・シナトラがLSDの力でキリストになる(笑)「ティファナ・モナムール」も同様。どうでもいいがエルロイの小説を読むと、メキシコという土地はこの世に出現した地獄みたいな土地に思えてしまうのがすごい。そんなにメキシコ警察って腐ってんのか?

「チルドレン」でようやく伊坂幸太郎の単行本全編制覇。一人のキャラクターを使って個々の短編を長編へと縫い取っていく巧みさには舌を巻く。どうも最近、はじめ多少の抵抗を感じていた伊坂世界に完全に馴致されているようで、どうやら見えてきた伊坂的文体までもが心地よく感じられてきている。

すえのぶけいこの「ライフ」は、学校という抑圧機構の中でリストカットを覚えた女の子が、常軌を逸したいじめに囲まれながらも生き抜いていこうとする物語だが、このいじめの常軌の逸しぶりがあまりにも過剰というかパンクな描写であり、ある意味アストロ球団的な笑いが生まれてさえいる。しかしかつて重松清の「ナイフ」を読んだ時に感じた抵抗感は無いので不思議だ。いじめれる側の自己否定の心理、卑屈さをきちんと描こうとしているからなのかもしれない。逆に、いじめる側に立ってきた人から見ると相当不快なマンガなのではないか(いじめっ子=貞子的バケモノと化している^^;)。以降も続刊なので今後もちょくちょく読んでみたい。

よしながふみの普通のマンガは初めて読んだ(ってのも変な書き方だが、要はなかばグルメガイドであった「愛が無くても食ってゆけます」しか読んでなかった)のだが、かなりうまい話づくりで見直しました。

というわけで土日も終了ッ・・・!明日から気が重いよ〜。
週末の温泉旅行をすべてのターゲットに定めて、馬車馬するしか。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

7月 20, 2005

伊坂幸太郎新刊「死神の精度」(★★★☆)/akiko"simply blue"

伊坂幸太郎の新刊「死神の精度」読了。

死神といえば今日びはデスノートだが、死神のお仕事的側面に多少インスピレーションを与えられたのかもと思いつつ、冷静沈着だけどズレたスクリューボール・コメディ的キャラクター造型を使った、いつもの伊坂風味連作集になっていた。
さすがにストーリーの運びはうまいのだが、ひとつひとつの話が小粒で、長編小説読みの私にしてみるといささか合わない・・・こりゃ宮部みゆきパターンかなと思っていたのだが、最後にウウムと嬉しくなる展開を用意してくれており、伊坂ファンにとっては読みやすくも良くできた格好のプレゼントを受け取った印象である。
★★★☆。

「死神の精度」に登場する死神は、仕事の合間にCDショップで音楽の試聴をするのが何よりの楽しみという奴。そんな彼に捧げたいのが個人的に大好きなJAZZシンガー、akikoの新盤である。

「Old Devil Moon」など以前のアルバムにも収められていた曲だが、この盤におさめられたライブはまた一味違った歌唱で、とても楽しめる。「Night and day」も素敵。
ちょうどジャケの色味も似てるなー。

昨日劇場に忘れてきたポーチを取りにユナイテッド・シネマとしまえんに再訪、ついでに実相寺昭雄監督「姑獲鳥の夏」を見た。
かったるくなって途中で放り出した原作を見直すきっかけになるかなと思ったのだが、結局うなずけたのは京極演じる水木しげるの登場シーンのみ(^^;)。たぶん今後も当面、京極堂シリーズとは縁がなさそうだ・・・。
演出はいつもの実相寺流。お好きな方はどうぞという感じ。

ひょんなことから入った「ホテル・ルワンダ」日本公開を求める会のホームページ、ひょんなことから今メンテ担当してます(制作したのは別の友人)。
よければ、ちょくちょく見てみて下さい。
実をいえば、US版のDVDで映画「ホテル・ルワンダ」を見た(英語字幕つき)のだが、号泣シーンがけっこうある、かなりの感動作だった。民兵が人々を虐殺するシーンは意外と抑えた演出で、米国のレーティングもPG-12程度だったと聞く。
ドン・チードルはとにかく入魂の、ヒューマニティ溢れる素晴しい演技。どうしてこれでアカデミー主演男優賞が取れなかったのか全く不可思議なくらいだ。(もっとも「レイ」の方は見ていないので、トピック的な部分以外にジェイミー・フォックスにイニシアティブがあったのかどうかは良く分からないが)
ぜひ公開にこぎつけて、一人でも多くの人に見てほしい作品である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

7月 08, 2005

「ジェノサイドの丘」(★★★★★)読了

「ジェノサイドの丘 ルワンダ虐殺の隠された真実」を読み終えたので感想など。
mixiに書いたレビューの転載ですので、そちらで読んだ方は読み飛ばしてください。

上巻
------------------------------------------------
幼い時、「自分はいつか必ず殺される運命の人間に生まれついたのだ」と知ったら、人はどうなるのだろう?

政府によってそれが周到に準備され、遠い西欧の国から自分たちを皆殺しにするための兵器が次々と輸入されていると知ったら?
ある日ラジオから不吉なニュースが流れ、一晩中鳴り続ける無気味な音楽とともに、昨日まで挨拶を交わしていた隣人が、自分の首を刎ねるための山刀を持って飛び込んできたら?
昨日まで信仰を捧げていた教会に「お前たちは死なねばならない」と門戸を閉ざされ、やってきた国連軍の見てみぬふりの前で無惨に友人が辱められ殺されていく、そんな状況が目の前に展開したら、私たちは耐えられるだろうか?

本書、「ジェノサイドの丘 ルワンダ虐殺の隠された真実」では、1994年のルワンダで国民の1割にあたる80万人のツチ族が多数派フツ族に属する隣人や先生や親戚たちによって殺され、国際社会がそれを無視した事実が描写される。
民兵たちはフランスから輸入された小火器を使用したが、最も多く使われたのは一般人でも持っている山刀である。プロパガンダに汚された多数派フツ族は木々の枝を払う作業でもするように、犠牲者に斬り付け、首を刎ね、内蔵を引き摺り出したという。女子供も目こぼしの対象にはならなかった。民族自体が「消えればいい」と考えられたのだ。

本書の上巻では、その空前の「ジェノサイド」状況の中で苦しんだ人、隣人殺しを指揮した人、「当たり前のこと」として人々を死から救った勇気ある人たちのことが語られる。

下巻
------------------------------------------------
国中で隣人が隣人によって殺される。あまりにも忌わしい事態は、事態が終了した後も決してその影響を途絶えさせはしないという意味で、いつまで経っても終わることのない悪夢である。

本書の下巻は、「ジェノサイド以後」のルワンダで生きるということがどういうことだったかを丹念に伝える内容だ。
反政府軍RPFはジェノシダレ(虐殺者)に支配されたフツ族政権を打倒する。RPFに追われたフツ族の民衆は、ルワンダの国境を超えてザイールに流れ、そこで難民キャンプを形成する。民間人の中には多数のジェノシダレが入り交じり、彼らは再軍備を整えて逆襲を企図する。その難民キャンプを、国連や人道保護団体が「難民キャンプ」であるという認定の元に援助するという逆説。
やがてこの動きは反撃するルワンダ新政府とウガンダによるザイール政権を打倒する戦い、はてはコンゴ内戦につながっていくのだ。

またその一方で、本書の下巻ではジェノサイドを経験した人々がジェノサイドを実行した人々を再び受け入れて国を再建しなければならない、これまた想像を絶する苦悶と模索が物語られる。
このような状況下では何が正義と呼びうるのかが常に問われる。指導者となった痩身のポール・カガメ将軍、親族を殺された老婆ギルムハツェら無名のルワンダ人たちの横顔、彼らを指して「被害者面し過ぎる」と評する外国人たち。

「恐ろしい状況を経験した痛みには同情する、しかしあなたたちは憎しみを捨てて生きなければならない」と私たちは説きがちである。しかしそうした態度は果たして正しいのだろうか?それは最初から彼らの痛みや苦しみを意識外に置き、シャットアウトする態度ではないのだろうか?。

皆殺しを生き延びてなお生きることの苦しみ−そのような苦しみを耐えてルワンダの人々は今日を生きている。その事実を知る事の意味は、虐殺の事実を知る事と同じくらい大きいのだと、この下巻は説いているかのようだ。
------------------------------------------------



上記本読了後の現在は、中沢新一「僕の叔父さん 網野善彦」を読み進めている。

| | コメント (11) | トラックバック (0)

7月 03, 2005

髪切った

3ヶ月ぶりに髪切った。

昼過ぎに起き、ベッドに腹を下にしてテレビを見ていたら、
時節がら上半身ハダカだったりする故、後ろ髪が卓上ホウキのような感じで背中の肌に当たる。
ちょっと伸びすぎたなあと思いつつ、何となく気持ちいいので首振ってしばし髪が当たる肌感覚を楽しんだりして。

・・・アホだ。切ろう。

というので中野駅前まで。予約時間を待つ間あゆみ書店に寄るが、「ジェノサイドの丘」下巻がどの棚を探しても置いていない。上巻を読み終えた感動に打ち震えている状態で入手できないのは困る。
かわりといっては何だが前から読書予定リストに入れていた「59番目のプロポーズ」と「僕の叔父さん 網野善彦」を買う。

髪を切った後にやはり我慢ならず高田馬場へ。芳林堂書店はさすがに正しい本屋であり、「ジェノサイドの丘」上下巻とも揃っていた。
下巻だけ抜くのはしのびないのだが、上巻を買った明屋には下巻だけが置いてなかったので致し方ない。
許せ!

上巻を読むだけでも1994年のルワンダで起きたツチ族虐殺がいかに徹底的なものだったか、いかに人間は「非人間的」になれる生物であるかということを繰り返し知らされる。
 私にとって、虐殺をイメージ的に形作る最も恐るべき描写は以下のような部分だった。

実際、ジェノサイドによる死体は鳥たちへの贈り物だった。だが、鳥たちは生存者たちを助けてもくれた。山火事から逃げ出した動物たちをあさる猛禽類とハゲタカが火事の最前線を空に作るように、絶滅作戦のあいだのルワンダでは、虐殺現場の上空で沸騰するノスリ、トビ、カラスの群は空に描いた地図となって、森に逃げて生きのびたサミュエルやマナセらに、「立入禁止」区域を告げてくれた。

ルワンダで起きたジェノサイドを材にとった映画「ホテル・ルワンダ」(日本での劇場公開が見通し無しとなっており、公開を求める運動が起きているのは前に書いた通り)の主人公であるホテル支配人ポールは、皆殺しリストに挙げられた多くの人々をホテルの中に匿い続けた実在の人物であり、この著作の中にも登場する。
ただ後になって−「みんながあのときのことを話しはじめてから」−ポールは自分が例外的存在だったと知った。「ジェノサイドの最中にはわかっていなかった」と彼は言った。「自分がやったようなことをやっている人はたくさんいるんだと思っていた。本気でやろうと思っていればできたはずなんだ」

これに、上巻の中で最も胸を打つ以下の文章が続く。
ポールは自由意志の信奉者だった。彼にとっては、ジェノサイド中の自分の行為は、他の者の行為と同じように、選択だった。自分がやったことはわざわざ正しいと呼ばれるようなことではない。それが正義と呼ばれるとしたら他人の罪との比較でしかなく、そうした比較による基準自体が唾棄すべきものである。
 ポールは全てのエネルギーを、死を−自分自身と他人の死を−免れることに捧げていた。だが彼が暴力的な最期よりもさらに恐れていたのは、彼の言葉を借りれば「愚か者」として生きる、あるいは死ぬことだった。この光に照らされれば、殺すか殺されるかの選択も疑問に姿を変える。なんのために殺すのか?なにとして殺されるのか?−それは難しい挑戦ではない。

今、映画館のスクリーンは次々に映画化されるアメリカン・コミックのヒーローで飽和状態だが、そんな空疎な偶像よりも、ポールのような「普通の人々」が抱く「当たり前」の善性の方がより強靱であり、まばゆく光る。

国連をはじめとする国際社会はどうだったのか?
著者ゴーレヴィッチは、ジェノサイドの後ルワンダから犬たちが姿を消したのは、殺された人々の屍肉を漁る犬たちを反政府軍や国連兵たちが撃ち殺していったためであることを説明し、こう続ける。

青いヘルメットのUNAMIR兵士でさえ、一九九四年の晩夏、犬を見かけると撃ち殺していた。何ヶ月も、国連兵士は銃の撃ち方を知っているんだろうかとルワンダ人たちは疑問に思っていた。立派な武器を民間人の殺害を食い止めるためには一度も使おうとしなかったからだが、結局のところPKO兵士の射撃の腕前は抜群だった。
 ジェノサイドはいわゆる国際社会に許容されていた。だが死体を食う犬は国連にとって衛生上の問題だったのだ。

 「ジェノサイド」という言葉を、米国政府はルワンダの状況を指すためには一切使おうとしなかった。それをすると「ジェノサイド条約」に基づいて阻止のための介入をする必要が出てくるからで、ソマリアで痛いめをみている米軍はアフリカでの部隊展開をこれ以上行ないたくなかったのだという。
 これはこの前に読んだ「ドキュメント 戦争広告代理店」で、ボスニア政府とPR企業ルーダー・フィン社が「民族浄化」という言葉を巧妙に広め、米国をはじめとする西欧諸国にバルカン半島への介入を行なわせていった状況と好対照をなすように思える。
 ひとつの言葉を使わないことが百万人のアフリカ人をただ隣人に殺されるままに放置したり、ひとつの言葉を使うことがバルカン半島の都市にNATOの空爆を仕掛けるきっかけになったりするのがグローバルな政治の現実であるということだ。いっぽうで、ルワンダでは昨日まで近所で暮らしていた隣人が山刀を持って自分達の一家を全員殺しにやってくるのが現実だったというわけだ。
 そして、その地獄のような現実は世界の誰にも知らされることがなかった。(もちろん、私もその中に含まれる)
 本だけではなく、やはり映画も見てイメージとして描き出されたその現実を見ておきたいという思いを新たにする。
 →「ホテル・ルワンダ」日本公開を求める会のHPはこちら。(署名運動開始)

その他今週のうちに読んだマンガとしては、吾妻ひでお「失踪日記」、Q.B.B「幼稚なOTONA」、一条ゆかり「うそつきな唇」、高野文子「棒がいっぽん」など。

以下amazonリンク。

続きを読む "髪切った"

| | コメント (0) | トラックバック (1)

6月 26, 2005

「リング2」「バットマン・ビギンズ」(両方★★)

ひきこもりノリでずっと在宅してたが、夜からチャリ外出。
今日はユナイテッドシネマとしまえんまでチャリで行ってみる。
地図もろくに確認しなかったが、恐らく練馬駅から豊島園線の線路を辿れば到着するハズ、というあらかた目星のうえでGO。
途中幾度か住宅地を縫って進む線路を見失いそうになるが、なんとか到着。道をつかめば自宅からチャリで25分かそこらで着くことがわかった。ワーナーマイカル板橋よりチョイ近いような印象。

せっかくチャリで来たので、レイトショーに続き土曜夜のスーパーレイトショーを使って2本見ることに。
「スター・ウォーズ エピソード3」の先先行上映は非常に惹かれたのだが、既に一緒に見る約束をしている人がいる(男ですが)ので、中田秀夫監督「リング2」、クリストファー・ノーラン監督「バットマン・ビギンズ」の2本を選択。
「リング2」はかの美女ナオミ・ワッツをちっとも可愛く撮ってやらない中田監督の底意地の悪さ以外に印象に残らず、「バットマン・ビギンズ」に到ってはクリスチャン・ベール、ケイティ・ホームズ、リーアム・ニーソン、マイケル・ケイン、ルトガー・ハウアー、モーガン・フリーマン、トム・ウィルキンソン、ゲイリー・オールドマンとあと誰かいたっけ、ああそうそう渡辺謙という何だか訳が分からないくらい豪華なキャスティングから危惧されるとおり、見事なまでに総花的に散っていて実に退屈な映画だったことを書き留めておく。

2本の間時間が空いたので深夜のファミレスに入り余計な金を使ってしまったのだが、そこで滝本竜彦/大岩ケンヂによるマンガ版「NHKにようこそ! <1>」、舞城王太郎「煙か土か食い物」を読了。
「NHK〜」は多分2巻は読まないと思う。
舞城は中断していた期間が長かったせいか、後半〜ラストのへんな落ちにガックシ。中盤までがもっとも面白かった。
ほかにこれは半ば仕事絡みだが、Peter Van Dijck著「Webデザイナーのための情報アーキテクチャ入門」を読了。情報デザインのやり方にアウトラインを与える系の本で、目からウロコ的発見があるということでもないが、よくまとまっている。

↓例によってamazonリンク貼っときます

続きを読む "「リング2」「バットマン・ビギンズ」(両方★★)"

| | コメント (2) | トラックバック (1)

6月 19, 2005

読了本と進行本

最近メモってなかったので一気に。
とりあえずはプルースト「失われた時をもとめて」5巻<ゲルマントのほう 2 >-読了。ようやく全10巻のうち前半にあたる部分が終了したわけだが、それにしても「ゲルマントのほう」にあたる2巻は超キツかった。主人公が憧れるゲルマント公爵家付近の社交界が舞台で、大半が気取り澄ました貴族たちの二重にも三重にもわかりにくい「才気」が振りかざされる、鼻持ちならない会話に彩られているのだ。これがスタンダールの嫌ったフランス流の偽善だというなら納得もでき、フランス革命で民衆が奴等をギロチンに送り込んだのもむべなるかなといったところ(←言い過ぎ)。ちょっとエモーショナル的に盛り上がるのは4巻終盤から5巻はじめにかけての祖母の死のくだりと、また同じように死のふちにあるスワンを置いてゲルマント公爵夫妻が舞踏会に出かけていくシーンくらいだ。
そこへいくと6巻からはじまる<ソドムとゴモラ>は、前巻でいきなりびっくりするような神経質ぶりを見せたゲルマント公爵の弟シャルリュスが、実は同性愛者(つまりソドミーな人たちっつーことですね)であることが明かされ、「ソドムってそういうことかー」といきなりわかりやすい展開を見せる。じゃあゴモラの女ってのにはどういうキャラクターが出てくるのやらドキドキドキ。まさか「怪獣王子」の方じゃねえだろうな。

2冊目は中公新書の吉見俊哉著「博覧会の政治学 -まなざしの近代- 」。水晶宮そびえたつ1851年ロンドン万国博から1975年大阪万博までの歴史をなぞりつつ、国威発揚と帝国主義の場であった万国博が、消費する大衆の欲望を引きつけるようになり、その欲望が百貨店やテーマパークなどの常設的消費空間に拡散していくプロセスを語り明かしていく著作。別に読みにくいわけではないが、アカデミックな視点で語られているため時間はかかった。
おもしろいのは博覧会の見世物/アミューズメントパーク的側面である。戦前の日本には内国勧業博覧会を中心に様々な国内博覧会が展開していた。明治政府は第一回内国勧業博の注意書きに「内国勧業博覧会の本旨たる、工芸の進歩を助け、物産貿易の利源を開かしむるにあり。徒に戯玩の場を設けて遊覧の具となすにあらさるなり」と述べてアミューズメントパーク的要素を排除する方針を示す(少し前に東京国立博物館で催された「世紀の祭典 万国博覧会の美術」展では巨大な有田焼などムヤミヤタラに工芸力を誇示した笑える出品物が展示されていたが、これなども肩にかなり力の入った明治政府の博覧会イメージが現れ出た側面と言えるかもしれない)が、人を入れねば巨大な赤字を抱えることになる博覧会運営の都合もあって、その方針からはドンドン逸脱したアヤシゲな見世物空間が続出していくようになる。

当時「快回機」と訳された「木馬に跨がり、愉快に回転する機械」すなわちメリーゴーラウンド、

↑ちょっと怪しい
「乗客を小艇に乗せて、高さ四フィートの台上より、長さ三百十四尺の斜面の軌道を走らせて、池中に墜せば、艇は乱波飛沫の間に没して、暫時、その姿を失ふ」とされたウォーターシュート。

↑余情あふれる表現

などといった遊園地的設備が登場し、人々を単純に楽しませることとなるのだった。
これらのアミューズメントパーク的ノリが明らかに出てきた明治36年の第五回内国勧業博覧会の跡地は、阪堺鉄道系列の大阪建物会社によって開発され、やがて大衆娯楽地「新世界」になっていく。

このように博覧会場を娯楽地として求めてきた大衆の前には、植民地主義に基づく「人間の展示」などといった展示物も供され、興味をひきつけることとなる。1889年パリ万博では会場内に「原住民集落」が建設され、セネガル人・コンゴ人・ニュー・カレドニア人・ジャワ人らが現地の集落を模倣した環境の中に押し込められ、「未開人」として展示された。
4年後の1893年、シカゴ万博における「ミッドウェイ・プレザンス」で実施された、より徹底的な「人間の展示」についてふれた以下のくだりには恐怖さえ覚える。

ミッドウェイの「未開人」は、人類学者たちにより「偉大な実物教材」として迎え入れられ、非白人の世界を野蛮で子供じみたものと見なすアメリカ人の見方を「科学的」に正当化していた。

ここにおいて、人種的偏見と人類学的まなざしと大衆娯楽は相互に絡まり合い、博覧会を訪れた白人たちに心地よい自己確認の場を提供していたのである。

日本でも上記の第五回勧業博では初めての海外植民地である台湾を中心に、学術人類館などといったパビリオンで「人間の展示」が行なわれ、また1910年の日英博では
二箇所は、「アイヌ」村落及び台湾村落にして、(中略)一は蕃社に擬し生蕃此の処に生活し、時に相集りて舞踏したり

といった形でアイヌ民族や台湾の高砂族など、日本帝国にとって「原住民族」と捉えられる人々がこうした人種展示のために輸出されていったようだ。かつて読んだ名著「台湾・霧社に生きる」に登場する、高砂民族の対日蜂起と報復虐殺は、この20年後の昭和五年に起きたできごとである。

最後に村松友視(←正しい字はPC辞書にないみたい)著「ヤスケンの海」
旅先の夜に酒飲みつつ泣きながら読了した。同じ職場の同志としてまたライバルとして働いた著者でなければ描けない、細緻にわたりかつ情熱的な人物伝。村松友視はかなりの記憶魔のようで、ひとつひとつのエピソードの細に入った叙述に驚くが、その人のその人たる所は細かい仕草や反応に出るものなのだなあと思わせる。
これは薄い本なので一気に読んだ。

続きを読む "読了本と進行本"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

5月 27, 2005

「プライド」熱いです。

「ニクいアイツ」と「スゴイダイズ」って似てますよね。
>挨拶

k-tanakaです。
何ヶ月かぶりに、マンガにハマってます。(この書き出しのパクり元はこちら
ここんとこ、私が基礎教養と考えているマンガが立続けに新刊を出したこともあり(「のだめカンタービレ」「シガテラ」「風雲児たち -幕末編-」「機動戦士ガンダムTHE ORIGINE」など)、ちょっとその波に乗ってマンガの裾野を広げようと、FraUのマンガ特集で見て「これはおもしろいかも」と思った一条ゆかりの「プライド」1・2巻を買って読んだところ、怒濤のおもしろさ、翌日直ちに3〜4(最新刊)巻まで読んでしまいました。


ある意味、ステレオタイプなキャラクター設定ながら、その対立軸の中心に「プライド」という人格的要素を据え、「高いプライドを捨てられない」女と「プライドを初めから放棄することから始めた」女の葛藤をドラマに昇華させていく、さすが一条ゆかり、大御所ならではの素晴しい作劇術。
これはドラマ化は必定でしょう。きっとオファーが殺到していることと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

5月 11, 2005

ロッセリーニ監督によるスタンダール映画化作品-「ヴァニナ・ヴァニニ」

ずっと前にWOWOWで放映されたのを録画してあった、ロベルト・ロッセリーニ監督の1961年作「ヴァニナ・ヴァニニ」を見た。
ロッセリーニといえば「無防備都市」などレアリスモの旗手として有名だが、この映画はフランスの文豪スタンダールのロマンティックな短編小説「ヴァニナ・ヴァニニ」の映画化という珍しいものだ。

この「ヴァニナ・ヴァニニ」、私の最愛のフランス小説であり、この映画化作品があるということを「映画千夜一夜」で知り、しかもそれがロッセリーニ監督だと読んでますます興味をそそられたものだが、いざWOWOWで放映されたのを録画して以来今まで見ていなかった。
なかなかこういうのはタイミングを逃すと後まで引き摺るものなのである・・・

原作はリソルジメント前夜のイタリア、ローマ〜教皇領を舞台に展開する。
ローマの貴族令息たちの偽善と退屈さにあきあきしていた美しいヴァニナ・ヴァニニは、ある日父親が秘かに屋根裏部屋に傷ついた婦人をかくまっているのを見掛け、その不可思議に好奇心をそそられて屋根裏部屋に会いに行くが、そこに居たのは刑務所を女装して脱獄した若き炭焼党(カルボナリ=貴族制と外国勢力支配に反抗する反体制組織)のリーダー、ピエトロ・ミッシリッリだった。彼女は貴族の身でありながら、自分達が属する貴族制を崩す活動をしている炭焼党員の多大なる情熱に心を動かされ、恋の炎に身を焦がしていく・・というストーリー。
とにかく、ヒロインであるヴァニニ公令嬢ヴァニナ役のサンドラ・ミーロの美しさが素晴しく、またリソルジメント期のイタリアを再現する美術も質の高いものである。
原作の端正かつ省略の多い文章では描かれていない、炭焼党vs政府軍の戦いが描かれているのも注目どころで、原作ファンとしてはかなり楽しめるものだった。
ミッシリッリの女装が即バレするところ、また後半でヴァニナが男装して警視総監を脅迫するくだりが変更されているあたりは逆に原作ファンとしては残念。ここがかっこいいのにね。手元にある岩波文庫版(生島遼一訳)から該当部分を抜粋すると

閣下はあわてて寝台に走りより短銃を握った。そうして窓のそばにおずおず歩みよろうとすると中から家のお仕着せをきたたいそう若い男がやはり短銃を持ってあらわれた。それを見るや、総監は短銃にねらいをつけて射とうとした。と、青年は笑いながらこういった。

「なんですか閣下。ヴァニナ・ヴァニニがおわかりになりませんか」

「こ、これは何のためのいたずらだ!」総監はすっかり腹を立ててとがめた。

「まあ落ちついてお話しましょうよ。それにあなたの短銃の弾丸はぬいてありますから」


このあたりのやり取りはぜひ映画版で見たかったところである。冒頭のミッシリッリの女装/終盤のヴァニナの男装という対照の妙はスタンダールも狙ったところではないかと思うのだが、ロッセリーニにとってはちょっと荒唐無稽にすぎると思われたのかもしれない。(★★★★)

原作小説は削りに削って凝縮された文体と情炎ほとばしるストーリーが素晴しいもので、スタンダールをこれから読む人や、何か読んだことあるけど今イチだったなという人にもぜひ読んでほしい名編である。
現在比較的手に入りやすいのは前掲の岩波文庫版だと思うが、個人的には角川文庫から出ていた宗左近訳を推したい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

5月 01, 2005

ランチジャー買った

昨夜ドンキでランチジャー買ったので、今日はどっか持ってって昼飯食おうと思ったけど結局中で食べました。
いつもの画像にくらべて、何かプロモーションっぽいまでの日当たりの良さなのは、昼メシだったからでした。
050430_lauch
まだ残ってた鶏のハツを煮込んでリーフレタスといっしょに盛っておかずとしました。
うーむ、上天気だから映画でも見よう!(不明)と思ってシャンテ・シネにアンゲロプロスの新作「エレニの旅」を見に行こうと家を出るも、途中で間に合わないことが判明。
結局丸の内オアゾに入ってる丸善で「失われた時をもとめて」5巻,6巻をGET。

ようやく4巻読み終わったので、GWには一気に6巻読了まで・・ってのはムリにしてもある程度読み進めたいもので。30歳以前全10巻コンプリート、まだ諦めるには早い。
気分転換にはこんなのも読んでます。

明日の葛西臨海公園ピクニックのためのお弁当仕込みをしながら晩飯。
050430_dinner

なんとか日中は晴れそうな勢い。頼むでー。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

4月 12, 2005

夜食blog

050411_dieer
そろそろ金がなくなってきた。明後日は新チームの滑り出し飲みをやろうということにしたので、今日あたりからはできるだけ外食を抑えて乗り切ろう、ということで夜半過ぎてからの帰宅ながら自炊モードで、きのことほうれん草、ツナ缶をオリーブオイルで炒めてパスタにからめた。
使い始めたのはつい最近だけど、やっぱりバジルが一瓶あると香りの幅が広がって大変素晴しい。
のどごし生はライン的に近いドラフトワンにくらべて、より自分の好みに近い感じ。

現在進行中のF.L.アレン「オンリー・イエスタデイ」は実に面白い。この人のエピソードを語る語り口は実に堂に入っている感じでノレるし、状況の本質をスパッと切り抜いてみせる刀さばきも適確なものに思える。たとえば、一介の曲乗り飛行士が行った試みにすぎぬ出来事が、なぜその飛行士=リンドバーグを国民的英雄・・見ようによっては神にさえ近いのではないかと思えるほどの偶像と化したのかの理由をみずから問い、こう答える。

その解明は簡単である。安っぽい英雄詩とスキャンダルと犯罪にうんざりして幻滅を感じていた国民は、かつては自分から享受していた人間性に対する低俗な見方に反逆したのである。数年にわたって、アメリカ国民は精神的飢餓状態にあった。彼らは、実際の出来事と彼らの意図とが互いに侵蝕しあい影響しあうことによって、次から次へと、以前の理想や希望がこわされていくことを知った−大戦の余波に失望させられることによって、彼らの宗教の土台をくずし、その感傷的な考えをあざける科学的教義と心理学説によって、さらに政治の腐敗と都市の犯罪のありさま、および猥褻と殺人とで食っている新聞の傾向によって−こわされていくのだ。

といった形で、リンドバーグの大西洋横断飛行への賞賛から、逆に当時その事件が起きる前までのアメリカがいかなる精神的雰囲気の中にあったのかを描き出してみせるといった具合。

実際この前段まで、こうした精神的飢餓状態を裏付けるエピソードの大群が凝縮して語られる。
ハーディング大統領時代のほとんど政府全体ぐるみとすら思える大規模な汚職と腐敗、後を襲ったクーリッジ大統領時代の好景気気分の中で進んだ誇大宣伝と広告の神話化、教会の商業化、クロスワードパズルとタブロイド紙的醜聞記事のブーム全国化(新聞のネットワーク化が大きく寄与している)、スポーツ選手の英雄化と葬式によって伝説的人物と化した映画俳優ルドルフ・ヴァレンチノのことが語られる。
こうしてみると、この時代のアメリカは「現代」の起源なのだとわかる。
それにしても、セールスと広告の勃興期でもあるこの時代のセールス活動は今では考えられないほどにあつかましく暴力的なものだったようだ。わざと通路に出しておいてお客にぶつからせ、商品に気をとめさせるための陳列用小テーブルなどというものが販売されていた時代というのは、今ではちょっと想像がつかない。

今日から加藤さんが再入院。
来週あたりお見舞いに行ってみようかな。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

4月 02, 2005

初出勤/「オンリー・イエスタディ」

二日前に決まった話で、急遽、某オフィース街の中に位置する親会社に出向することになった。
人生初電車通勤のプレッシャーが効を奏したのか、3時くらいまで会社にいたために超遅寝だったにも関わらず、翌朝7時に起きられた。
起きられたとはいうものの物凄く眠く、東西線に乗車して、OLとか口かっ開いて寝てるサラリーマンたちなどを観覧しつつスーツのおっさんだらけの某オフィース街へ。
こうして私がオフィース街に電車通勤するということ自体が何かのギャグとしか思えず、かなりセルフつっこみ的に笑えました。
あと、車中で携帯電話の目覚ましが鳴ってかなりアセった。普段なら今頃起きだしているところなのである。
これまでは「めざましテレビ」が見られなかったが、今後は「とくダネ!」が見れんなあ。

F.L.アレン著「オンリー・イエスタデイ 1920年代・アメリカ」を読んでいる。
繁栄と狂乱の時代であり、現代の社会を形作るルーツの一つである'20年代アメリカを活写した社会史の名著。
めっぽう面白い読み物なのだが、三章「赤の脅威」には特に、国際ボルシェヴィズムなる"怪物"の波に集団ヒステリー的状況に陥った20年代前半のアメリカが描き出されており、それが現代のアメリカの先駆的状況のように思えて興味深い。9.11後、イラク戦争時の右傾化したアメリカに私たちは驚いたものだけど、別に初めてのことではないのですな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

3月 26, 2005

「ズッコケ三人組と学校の怪談」(★★☆)

なつかしくなり、BOOK OFFに立ち寄ったついでに100円で買ったズッコケ三人組シリーズ「ズッコケ三人組と学校の怪談」を読了。
さすがに児童書だけあって、すぐに読み終わる。
ハチベエ、ハカセ、モーちゃんが通う花山第ニ小学校で、学校の七不思議の話をするのが流行。ハチベエたちが調子に