twitter


2017年1月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

Flickr

  • www.flickr.com
    This is a Flickr badge showing public photos and videos from k-tanaka. Make your own badge here.

読書メーター

  • 読書メーター
    unpyouの今読んでる本 unpyouの最近読んだ本

8月 08, 2015

「野火」(2015)(88点)塚本晋也監督

生々しいデジタル映像で、極彩色のジャングルの中を彷徨するゾンビ化した人間を捉える

大岡昇平の戦記文学の古典を再び映画化するにあたり、塚本晋也監督が意を注いだのはおそらく生々しさの追求だったのではないか。デジタル画質がもっている、何というか否応なくその場に居合わさせられるような言わば「むき出しの臨場感」のようなものと、登場人物たちの現代語的な言い回しによるやり取りは、いずれも事態をスクリーンの向こう側の安全圏に置いておかないための仕掛けなのだと思える。冒頭、3本のイモを持たされて部隊から野戦病院に追い払われ、病院からは強制退院させられ、部隊からは「何で戻ってきた」と再び病院に追い払われる兵隊の姿は、宙に浮いた業務を抱えて組織と組織の間を右往左往させられる会社員にも似ていよう。

もっとも、近しい感覚を受けるのはそこまでで、フィリピン戦線の兵士は現代の会社員などとは決定的に違っている。部隊に出頭するたびに上司に怒鳴られ殴り倒される、兵隊同士ではイモの強奪をし合い、指揮系統の崩壊後には、定かならぬ船出の噂をあてにして餓鬼の群れと成り果て密林を彷徨する他ないのである。恐らくは撤退路として認知されているジャングルの道の道端には、力尽き倒れ、腐り、ウジに湧かれて朽ち果てていく何百もの死者が折り重なっている。さらに密林を抜け、米軍の機関銃陣地の射程内を夜間に突破しようとするシーンでは、全編の中でも最も首の絞まる思いをさせられる。
誰が誰とも区別のつかない暗闇の中、目の前には他の兵隊の靴の裏らしき影しか見えない状況で匍匐前進する主人公の一人称目線の映像は、「プライベート・ライアン」をも超越した圧倒的な臨場感である。戦場でひとりの参加者に与えられる「視界」は本当にこのような狭くてわけの分からないものだったのだろう、と想像させられるのだ。その果てには、尊厳もなにもかなぐり捨て、狂気の向こう側に落ちてでも生きる道、恐るべき人間狩りと人肉食へむかう選択肢が待っている…。

私たちは「野火」でフィリピン戦線の極彩色の地獄を疑似的に追体験することができる。いかなる立場や主張の人であれ、この追体験は一度はしておくべきと言えるのではないか。

7月 21, 2015

「フレンチアルプスで起きたこと」(79点)リューベン・オストルンド監督

男は、みっともない自分を受け入れられるのか?何ともヒリヒリする黒い笑いに満ちたドラマ

スウェーデン映画って見るのこれが初めてかも?リューベン・オストルンド監督による、男にとっては実に意地悪な笑いに満ちたドラマ。
ヴァカンスで北欧からフランス国内のスキーリゾートにやってきた4人家族。夫と妻、そして彼らの子である小さい弟と少し年上の姉の4人は、奥深い雪山にある豪華なリゾートホテルに滞在し、滑りまくる。深山のアルプスでは新雪が積り雪崩の可能性が高まるたびに滑走客がいない時間を見計らって人工の雪崩を発生させる作業が行われている。
翌朝、ゲレンデに接したオープンテラスのカフェで家族が朝食をとっていと、そんな人工雪崩がゲレンデに発生しているのが見える。しかしその雪崩は勢いを増しながらカフェに突進してき、あわやカフェの客たちは覆いかぶさる雪の下敷きになるやに見える…!そこで四人家族に起きた椿事、妻と二人の子供を置いて、夫はカフェを一目散に逃げ出してしまったのだ…
というのは映画のほぼ冒頭の話で、この先、映画は「あなた真っ先に逃げたわよね」という事実を、気遣いが邪魔してなかなか指摘できない奥さんを尻目に、自分が真っ先に逃げ出したという事を認められない夫の悪あがきの葛藤によって進んでいく。おかしいのは、友人たちの目の前でいい加減ブチ切れて夫を追い詰める妻をなだめ、「トマス、君はこう考えていたのじゃないか?全員雪に埋まってしまっては誰も助からない、一度自分は避難し、すぐに必要な準備を整えて家族を救出しよう、と…」などと冷静ぶってとりなす男友達が、言い争いの場を離れてエレベーターを待っているときに恋人に「でも、あなたも私を置いて逃げそう」といわれ、平静を失って大反論するシーン。男性にはこうあるべきという自己意識があり、それとそぐわない行動を自分がしてしまった時に、その事実さえも認められずに煩悶する…いや、実際には「そぐわない行動を取ってしまうかもしれない」という可能性にさえ耐えられないのが、男という社会的動物のもつガラスのプライドなのだ…という極めて教訓的な筋である。
「ブルーバレンタイン」なみにデートには向かない一本とも言えるが、夫婦や恋人同士で観て話し合うからこそヒリヒリして面白い一本といえるだろう。もちろん、万一修復不可能な溝が残ったとしても補償はできないが…w

余談だが、フランス国内のアルプスというとニュースで記憶に新しいのはかの忌まわしきジャーマンウイングス9525便墜落事故だが、この映画の最後に登場するバスの運転手の行動はあたかも心神喪失の副操縦士を思わせるようなものだった。これはやはり何らかの意味的な関連があるのだろうか?ちょっと興味をそそられる。

7月 20, 2015

「マッドマックス 怒りのデス・ロード」(100点)ジョージ・ミラー監督

いやあ映画って、本当にいいもんですね。100点つける他なし!

復讐と走りの狂気に取り憑かれた男マックスを描く第一作、狂気がキャラ自体を超えて世界観設定に広がり、唯一無二の映画空間を打ち立てた第二作を経て、この「怒りのデス・ロード」は、シャーリズ・セロンが演じる、希望という狂気に向けてひた走る若きヒロインを旧世界的絶望を背負うマックスに対置することで、新たな輝かしい物語を歌い上げることに成功している。まさに堂々の第三作といって良い…え、「サンダードーム」?あれはこの話しようとしてコケた黒歴史ってことでいいのでは?…総集編にして最高傑作が登場した。

そんな傑作たる本作のストーリーはというとブォンブォンブォン!ズキュルルル、ドガシャーン!「俺の輸血袋を車にくくりつけろォッ!」ドンドコドンドコドンドコドン(青森ねぶたで日立が出してるみたいな太鼓山車がねりあるく)、ブィブィーン、ブフォオッ(エレキギターの先端から火炎放射)!
という感じである(どういうんだ)。
イモータル・ジョーなるダークヒーローが率いる、メーターの振り切れた過剰な者たちのパレードが主人公たちに追いすがろうとするチェイス、とにかくそれだけと言ってもいい主筋のシンプルさは「マッドマックス2」でも見られた美点。さらに今回はハリネズミのようにトゲを生やした車両を狩る部族、岩山に住み着く盗賊軍団、バイクを駆り狙撃銃を振り回すばあ様騎兵団など、新奇なキャラクターが大量登場し、世界観のすそ野をガッチリ固めているのがさらなる魅力である。
資本と技術をエクストリームな未来観に惜しげもなく突っ込んだという意味で、本作はニューヨーク近代美術館あたりに展示として加えるに足るモニュメンタルな映画といえるだろう。「見た?」「見た!」「何回?」というのが既に合言葉となっていると聞くが、はたして劇場を出た私に奥さんは「少なくとももう一回見る」と早くも宣言したのだった。俺も立川の爆音上映とか行くかなあ…。

(立川極上爆音上映鑑賞後、追記)

爆音上映にて2回めの鑑賞。これ「風の谷のナウシカ」より面白いんじゃねえか?

初見から一週間しか経っていないが、「マッドマックス 怒りのデス・ロード」2回めを立川シネマシティでの「極上爆音上映」にて鑑賞。
何度見ても飽きないのは、主筋をシンプルに整えながらも、背景や伏線が徹底的に練り込まれた台本のパワフルさ、そして全てが世界観にフィットするように綿密に作り込まれた美術の凄さである。良い映画は、映っているモノ自体が既にストーリーを語り映画の流れを力づけるといえるのだが、それにしてもこの映画における美術の徹底的なコントロールぶりは凄い。マッドだ。このようにモノ(=美術)が徹底的にコントロールされた映像作品として私たち日本人に馴染み深いのは、何といってもジブリアニメだろう。ジブリアニメの中で描かれる様々なモノがキャラクターと違わないレベルで雄弁にストーリーを語っていることは、別に難しいこと考えなくても多くの日本人が感覚的に知っている件だと思うが、あのレベルの世界造形が実写映画で達成されているのを見る事は少ない。だってあれはアニメだからね…。ところが「マッドマックス」は実写にも関わらずこれがやれているのだ!ピージャクの「LOTR」「ホビット」がCG全開でやってるのも超えてるレベルでやれているのだ!これが、本作をニューヨーク現代美術館に展示すべきだと考えるゆえん。
ジブリアニメを引き合いに出して思ったが、考えてみると同じ戦闘姫ストーリーであるという意味で「風の谷のナウシカ」と比較してみるのも面白いかもしれない(どっちも汚染されたディストピア世界の話だという点でもシンクロ率高い)。今のところ、その圧倒的な同時代性(そりゃ当たり前なんだが)、主筋の削りに削り込まれた洗練性、一本の映画で語られるべきことを100%語りきっているという完成度において、反発は覚悟しながらも自分としては「風の谷のナウシカ」よりこっちの方が…そうねえ2倍くらい?面白いと考えている。
あと爆音はかなり心地よいので初見の人は爆音上映がおすすめ!

「雪の轍」(-)ヌリ・ビルゲ・ジェイラン 監督

悠久の世界遺産カッパドキアで、洞窟をゲストルームにしたホテルオーナー夫妻を主人公にした3時間19分の長大なパルム・ドール受賞作…なんだか分からんがすごいスペックのトルコ映画なのだが、申し訳ないが恐らく映画の前半はおおむね寝ていたため、評点をつけるのは難しい。いくつか箇条書き的に述べると

・別にカッパドキアでなくても良い話
・特に必然性ないが日本人宿泊客が登場、ああやはりの親日国
・話のキモは「ブルーバレンタイン」なみに終わった夫婦の口論
・長さの要因は、普通切りそうな口論のディティール全部出しな点
・それゆえにヒリヒリくるリアルさで、奥さんの隣で観ててガクブル

後半、札束が机の上にボンと置かれ「この金はどういう意味です?」というやり取りが始まるある種クラシックな展開が出てくるが、この手のやり取りの最新最強のシチュエーションを見た感じ。「カネに色はない」という言葉があるが、べったり原色で塗りたくられてるわ。

ということで後半だけ見ても十分に面白かった。ものすごく地味な仕立ての映画なので、体力充溢してる時に見るのをおすすめします。

6月 21, 2015

「極道大戦争」(80点)三池崇史監督

大半の観客のあきれ顔が想像できるw まさに三池節としか言い様のない新作

かつて「DEAD OR ALIVE」という映画で、ちょっとおかしいけどシリアスなヤクザ映画なのかな〜と思いながら見ていた観客にラストでとんでもないものを見せつけた三池監督。それに比べれば「カタギが噛まれたらヤクザに変わるヤクザ・ヴァンパイア」というアホな設定を最初から明らかにしている本作においては、どんな超展開があってもおかしくないという前提は観客との間で共有できているはずと言えなくもない。だが、それにしても、平然と何の説明もなくカッパがヤクザ組織の一員として登場するあたりのナンセンス感はまだよかったものの、さすがにXXXがXX化するくだりで劇場から「これ、どうなるの?収拾つかないよ」という声が上がった。

ムリもないとは思うものの、そもそも「ヤクザ・ヴァンパイア」などというアホな設定の映画を見に来ている観客ではあるのだ。そんな観客に、どこまでナンセンスならば観客は耐えられるのかのボーダーラインを突きつけるかのような超展開の連続ぶり、いやあ、みんなあきれ顔で見てるんだろうなあと思いながらナンセンスの加速を楽しめる、比類ない映画体験だったと言える。これカンヌで上映したんだよね?まさにクールジャパンとはこれの事だろう。高島礼子のひどい扱いや中盤のなんとも言えないダレ感も含めて、三池崇史っぽい映画見たいな〜というファン以外には勧めにくいイカモノ感満点の一本。

6月 13, 2015

「龍三と七人の子分たち」(72点)北野武監督

話が展開しはじめる前の方が面白かった

北野武監督によるヤクザ喜劇。息子の勝村正信に心底ウザがられている元暴力団員の藤竜也が、かつての仲間たちとともに年寄の冷や水としか言い様のないヤクザ組織を結成、半グレ集団「京浜連合」と対決する…。

後半、京浜連合との全面対決に導かれる展開はそれはそれで面白いのだが、どちらかというと映画の前半、ほぼ、藤竜也と近藤正臣によるボヤキ漫才だけで持っているうちの方が面白かった。まさに男性の年寄り同士の会話独特の、間がゆるくて居心地の悪いやり取りが、独特の味わいを出している。藤竜也は映画の所々でオナラをひるのだが、この締まりのないオナラが呼ぶ笑いと、映画の語りのトーンには近いものがある。ゆるさを受け入れて楽しめないと、面白がれない映画なのではないかと思った。

5月 31, 2015

「私の少女」(83点)チョン・ジュリ監督

ペ・ドゥナ演じるソウルのエリート女性警官が、とある問題により地方の漁村の警察署へ所長として転任してくる。村人同士の目線が交錯する狭いコミュニティは、この所長にとっては少し重荷に感じられるものだ。
高齢化がすすみ若い働き手の欠乏しているこの村では、東南アジアやインドからの出稼ぎ者、朝鮮族などの外からの労働者を入れているのだが、この労働者の周旋役をしている男と所長とはやがて対立するようになる。そのきっかけとなったのは、この男と暮らしながら、日々家庭内暴力を受けている苛められっ子の少女だった。所長はこの少女を理不尽な暴力から救うために手を差し伸べる。たしかに、最初はそんなきっかけに過ぎなかったのだが…。
はっきりした輪郭をもって描かれるキャラクターと分かり易い一本線のストーリーラインで構成される映画、それと、幾つもの顔を持ち選択肢をまさぐりつづけるキャラクターによって担われ常に展開が揺れ動くストーリーの映画、二つに分けるとするなら、この映画は明らかに後者であり、映画を見たもの同士で語り合うのが楽しいのもまた後者である。そしてペ・ドゥナこそは、この映画が描き出す惑乱にみちた心理サスペンスとでも言うべきストーリーを担う上で、他に並ぶ者のない味わいを醸し出している。
たとえば、自宅のキッチンテーブルに一人向き合い、韓国警察の制服上衣のボタンを全て外し、コントレックスみたいなミネラルウォーターのペットボトルに移し替えられた韓国焼酎をコップに注いではグイグイ飲み続けるペ・ドゥナである。何とも独特な色っぽさだが、そも何ゆえに焼酎をミネラルウォーターのボトルに移し替えないとダメなのかは一切説明されることはない。これを敢えて観客の想像に任された余地と考えるのか、単なる説明不足と取るのかによってこの映画を楽しめるかどうかがかなり変わってくるだろう。そのような余地をふんだんに残しながらも、ハラハラさせられるようなサスペンス演出(それが、田舎の床屋に入ってくるおばちゃん連中の当てつけがましい会話などで演出されるのがまた良い)により興味の持続はしっかり図られているあたり、流石は稀代の映画作家イ・チャンドンのプロデュース作といえるだろう。バーベット・シュローダー監督の「ルームメイト」に戦慄した観客ならば「ああこのような話か」と予想する瞬間が訪れると思われるが、それはこの映画が用意するいくつかの迷い道の一つにすぎない。観客は、まさに惑乱するペ・ドゥナと同等の目線からに、映画がどちらに進んでしまうのかをハラハラしながら見守ることになる。
展開の合理性において無理があるのではと思う部分もないではないのだが、映画を見ている間の楽しさ、そして見た後に「あれはこういう事なのではないか」という語りの喚起力においても優れた良作だったと思う。農漁村の不法労働といった社会性もしっかり盛り込まれている。

5月 23, 2015

「チャッピー」(80点)ニール・ブロムカンプ監督

いやー、とにかくクラスター爆弾の威力に「やりすぎだろ!」と爆笑しながら興奮して上で劇場出て、奥さんに「『第9地区』と同じ話だった」と言われ「そっ…それは確かに」と自分がチャッピーだったら2本のアンテナを寝かせる感じにテンション下がってしまったw。やはり超強力武器使用シーンにテもなくはしゃいでしまうのは男子の偽らざるサガという事だろうか。
実際、人間よりもヒューマンといえるエビ型宇宙人に文字通り移入していく「第9地区」のストーリーと、AIが切り開いた意識の再インストールの領域にダイブする「チャッピー」のストーリーはその「人間ぎらい」の主な筋立てにおいて極めて類似していると言える。いや、荒廃したヨハネスブルグ、軍需産業のエゴ、その産業を担う一員が逸脱していく主筋、どうしようもないアウトローたち(同じ人たちがやってんのかと思った)など、「第9地区」の再説と呼ばれる要素ばかりだとさえも言える。導入部分がTV番組映像である事まで一緒であり、前回と違うのは番組アンカーがCNNのアンダーソン・クーパーである事くらいだ(笑)。
しかし、どんなに良くできた世界観とは言え、全く同じ話を語り直すだけではこんなに引き込まれる映画にはならなかっただろう。今回の魅力はアウトローのエゴが乱れ飛ぶ極限状況の中に、赤ん坊のように未書き込みのAIであるチャッピーが産み落とされ、成長物語の要素が投入されていること。しかもこの成長が「イノセントな知性がエゴに塗れた人間を恥じ入らせる」といったような説教じみた紋切型には一切なっていない事が面白さを醸し出している。
チャッピーという人工の知性は反抗期や裏切りを経て「生き残るためならば何でもしよう」といういかにも人間らしいエゴを獲得していく。そして、このエゴはいずれ罰を受ける罪深いものとして描かれるのではなく、周囲の人間たちのやはり自分勝手なエゴとの葛藤により、ストーリーを思わぬ方向に転進させていくのだ。そしてこの増大する人間らしいエゴが最後に提示する、いかにも人間では思いもよらない結論は、確かにこの種のピノキオ的、フランケンシュタイン的なストーリー類型を一階層アップデートするものなのではないだろうか。

5月 06, 2015

「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」(86点)アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督

人間は誰もがどこかで特別な存在になれる(?)普遍的欲望を胚胎したファンタジー。

かつてスーパーヒーロー「バードマン」を演じた映画スターとして一世を風靡した、マイケル・キートン演じる主人公リーガンが、『あの人は今』でしか取り上げられない存在となった己を悔やみ、一発逆転を狙ってブロードウェイの演劇を自ら主演・演出・プロデュースする。レイモンド・カーヴァーを原作にした劇のタイトルは「愛について私たちが語るときに私たちが語ること」といういかにも回りくどいもの。取材に押し寄せる記者たちも「バルトの指摘によれば…」「そのバルトって誰よ?バードマンの何作目に出てくるキャラ?」「ええっバードマンの4作目作るんッスか!?見たいなァ」等と、スノッブから単なるアメコミファンまでごたまぜ状況。それにしても面倒なスノッブがロラン・バルトを引用したがるのはアメリカも日本も同じようだ。うんざり顔のリーガンが舞台裏に戻ると、キャスティングは最悪の混沌に陥っており、落下した照明器具が脳天にぶつかって降板した大根役者の代打でブロードウェイの花形役者エドワード・ノートンがやってくるのだが、芸術と変態の境目をふらついているみたいなこの人物により、舞台は引っ掻き回されまくる。ドラッグ中毒のリハビリで付き人業をやっているリーガンの娘はちょっと目を離すとハッパ吸ってるし、ハッパの吸い殻片手に説教すれば目を剥いて(エマ・ストーンなんで眼力がハンパない)こんなクソ芝居やって演劇ファンの老人にちょっと見られたところで、SNSのタイムラインにちっとも乗らないんなら父さんなんかこの世に存在しないのと同じよ!(←言いすぎw)と噛みついてくるのだった。
しょんぼりせざるを得ない父親にして元映画スター。こんな目茶目茶なことになるはずではなかった、俺は時代遅れのスーパーヒーローのイメージを脱して、かつて役者になるきっかけを与えてくれたカーヴァーの舞台化で新しい自分を売り出すはずだったのでは…と自問するリーガンの耳に、バットマンいやバードマンの低く野太い声が響く「それは本当のお前なのか?」…
多種多様な要素が目まぐるしく同時進行で動く劇場の舞台裏の空気感が長回しを駆使して表現されていて、そこにドラムのみによる劇伴音楽が重なることで映画のリズムが小気味よく刻まれ、一寸も間延びせずノッて見ることができる。そう、あの気絶しそうに退屈だった「バベル」と同じ監督とは思えないほど…(←余計な追記)。主人公の内面の葛藤と周囲の濃すぎるキャラクターとの衝突によるドラマを前面に描きながら、背景にアメコミヒーロー依存のハリウッド映画界の現状と、そんな映画界をはるかに見下すブロードウェイ演劇界の意地とのカチ合いぶり、まったく文脈の違うところで暴走するネット上のシェアカルチャーという文化三つ巴状況を描写していて盛りだくさん。それにしてもブロードウェイに芝居を見に行ったこともなければ行こうと思ったこともない自分にも、こういう対立があるのか~等と分かった気にさせるのは巧みというべき。
見どころの多い映画ではあるが、エマ・ストーンの口からふとこぼれ出る「父は埋め合わせで私の事を『お前は特別な存在だ』と言ってきた」というセリフはこの映画の核心的なところだろう。人間だれしもどこかで自分のことを特別な存在だと信じたがっているし、特別だと思わせてくれる人を求めている。鬼ババ演劇記者に「あんたは役者じゃない、ただの『有名人』よ!」と断言されるリーガンは、その後本人の全く望まない形で、娘が認めるネット社会で「特別な存在」になってしまうのだが、それでも彼は「俺は無だ」という思いから逃れられない。一世を風靡したバードマン役者ではだめで、ネット炎上の張本人でもだめで、一体どうなったら自分で自分を認められる「特別な存在」であり得るのだろうか…?
この映画がクライマックスで用意するシーンは正直回答としてあまり納得のいくものではなかったが、万人が胸の中に持っているテーマを重層的なドラマの中にうまく織り込み、テンポよく仕上げられた良作と思った。
劇伴について、アントニオ・サンチェスのドラムの他にちょいちょいクラシック音楽が使われている。カーヴァー劇の最中にマーラーの交響曲第9番のアダージョが使われるのは、何ともいかにも感が出すぎていてこれ自体ギャグなのかなと思うのだが、気になったのはアクション映画内世界と現実世界が交錯する劇中唯一のスペクタクルシーンで、ジョン・アダムズのオペラ「クリングホーファの死」のパレスティナ難民のコーラスが使われていたこと。ドラマチックな曲だからこういう当て方はできるなとかねてより思ってた曲なのだが、確かこのオペラ、パレスティナ・ゲリラの描写が反ユダヤ的だと親イスラエル団体が主張する一種の炎上案件(2014年秋のメトロポリタン歌劇場公演にはジュリアーニ元NY市長を筆頭とする一群の抗議デモが詰めかけた)だったはず。あえての使用なのか、それとも単にいい曲だから使っただけなのかなあ等々思った。  

「僕たちの大地」(85点)ジュリオ・マンフレドニア監督

社会ののけ者たちが力を合わせる「社会起業=反マフィア運動」映画!

イタリア映画祭2015で鑑賞。
半島のかかとに位置するプーリア州のある田舎町が舞台。地域の顔役であるマフィア、サンソーネが収監され、接収された農場は反マフィア法に従って、公的に承認された協同組合に経営を委譲されることが決定しているのだが、上辺の法制度などよりもマフィアの報復の方が怖い、と、町の役人も誰も組合に対する手続きを行おうとしない。そこに北部の反マフィア団体から法律に詳しく、四角四面で書類ばかり相手にしてきた神経症の主人公が派遣されてくる。役人たちに条文を振りかざして手続きを終えた主人公は、農業のことはよくわからない保育士、スピリチュアルおばさん、ゲイカップル、コンゴ移民といった寄せ集めの組合員を率いて、まったく経験のない農業経営に乗り出すことになる…。

社会のはみ出しもの達が農園経営に乗り出し結束していく疑似家族・共同生活ものでありながら、いかにもイタリアらしく社会性が前面に出ていて、いうなれば世直し社会起業ものとして見ることもできる。協同組合方式による社会起業は、井上ひさしが「ボローニャ紀行」で描いたようにイタリアでは比較的昔からよく行われているもののようだ。
プーリア州の豊かな土地柄ゆえかトマトやナスの収穫シーンなどが眩しく、同じ映画祭でみたほかの田舎(カラブリアとか)を舞台にした映画とは一転してイタリアの田舎ええとこやな~という印象を受ける。マフィアの描写も実にソフト(そもそも、疑似家族として結束する主人公たちに対して、サンソーネは常に一人で登場し、孤独な人物にも見える)で、イタリア人から見るとちょっと現実離れした甘いストーリーなのかもしれないが、映画としてのカタルシスは十分。何よりこの映画で描かれるような反マフィア協同組合は現実にイタリアで活動しているもので、この映画も実話をベースにしたものだという。経済とマフィア組織が互いに根を張った社会構造を変革するための社会起業・・・いやはや、イタリアの社会起業家はつくづく根性が座っている。

より以前の記事一覧