「夜よ、こんにちは」(★★★★)
ユーロスペースでマルコ・ベロッキオ監督「夜よ、こんにちは」を見る。
現代イタリア史における最も重大なテロ事件、極左組織「赤い旅団」によるアルド・モロ元首相の誘拐殺人事件を描いた映画である。公開一週目なのだが、非常にしっかりした映画であり、特にアルド・モロ役のロベルト・ヘルリッカの滋味溢れる演技にも関わらず、20人と客が入っていない(まあ休日最終回ということもあるか?)のは残念である。
連合赤軍事件の6年後に起きており、左右両派から孤立し過激化を深めた若い左翼集団の起こした事件という意味でも似た面のある事件なのだが、アルド・モロ元首相誘拐殺人を歴史として記憶している日本人はあまりいないのかもしれない。私も、ディスカバリー・チャンネルで放送された、テロの現代史をまとめた番組をかつて見ていなければ、きちんと覚えてはいなかっただろうから、あまり差はないか。
監禁場所のアパートでカナリアを飼っているなどのディティールは取材に基づきつつも、映画に出てくる「赤い旅団」のメンバーは虚構のキャラクターであり、モロと女主人公との想像上の内面的な交流がストーリーの主軸となる。アルド・モロは非常に聡明かつ敬虔な人物として描かれており、「赤い旅団」のイデオローグが突きつける教条的な要求に対して、宥和的態度で応じようとする。モロを演じている老優、ロベルト・ヘンリッカの醸し出す穏やかな雰囲気と、夢や空想を随所に織り込んだストーリーにより、殺伐とした恐ろしい事件ながら、どことなくセンチメンタルな映画になっている。
我々日本人としては、高橋伴明監督の2001年作品「光の雨」を想起せずにおれぬところだが、比較してみるといろいろ面白い。
この映画の場合、主人公の親たちの世代は大戦末期、パルチザンに身を投じることによって自らの左翼としての行動に裏づけを持っていたことが描写される。イタリアでは、とにもかくにもムッソリーニが民衆パルチザンの手で吊るされることでファシスト勢力からの解放を得たのであって、それがイタリア共産党が西欧最大の共産党として勢力を持つ存在であった由縁でもあるわけだろう。
いっぽう日本の場合は、昭和天皇を民衆が処刑するなどといった事態はそれこそ深沢七郎の「風流夢譚」のような妄想の世界でしか描かれたことがない(しかも読めない)。その意味で左翼集団が融和的な要人を殺害して自滅していく過程は、戦後史の節目としてより重大な意味を持ったことだろう。
また、ここに第三の政治勢力としてヴァチカンの法王が登場してくるのもイタリアならではのことだ。モロの手紙を読んだ法王は、取引ではなくモロの無条件での解放を呼びかけ、「赤い旅団」はモロの殺害によってそれに応える決意を固める。
モロは、おそらくは自分の命乞いも動機の半ば以上を占めていると思われるものの、「赤い旅団」に対して説く。
「私を殺しても、それは私以外の全ての人々が待ち望んでいることだ。彼ら(政府)にとって、私は既に死んでいるのだ。君たちは私を殺したあと、一層孤立していくことだろう」
自らがすでに政治的な生贄として位置づけられていることを認識し、イデオロギーによって盲目となった若者たちに翻意を説くこのシーンは悲痛である。それに同意するメンバーに対して「赤い旅団」のリーダーは無条件解放などあり得ず、モロを殺すしかないと言う。
「革命は博愛主義では成し遂げられない」と言いながらも、
「今は不合理で不条理に受け取られたとしても、主観的現実を乗り越える英雄的行為になる」とし、「これぞ博愛の極みだ」と述べるのだが、この台詞からは自らのイデオロギーによって自縄自縛となった若者の姿が描き出されているようである。
非人間的な行為へただ突き進んでいく盲目さ、これもまた人間性というものの否定しがたい側面なのだ。
ラストシーンは非常に美しい。歴史という時計の針を巻き戻すことはできないが、せめてイメージの世界でならば、このようでもあり得たかもしれぬ過去を呈示することは許されるだろう。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (6)











最近のコメント