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5月 08, 2006

「夜よ、こんにちは」(★★★★)

ユーロスペースでマルコ・ベロッキオ監督「夜よ、こんにちは」を見る。

現代イタリア史における最も重大なテロ事件、極左組織「赤い旅団」によるアルド・モロ元首相の誘拐殺人事件を描いた映画である。公開一週目なのだが、非常にしっかりした映画であり、特にアルド・モロ役のロベルト・ヘルリッカの滋味溢れる演技にも関わらず、20人と客が入っていない(まあ休日最終回ということもあるか?)のは残念である。

連合赤軍事件の6年後に起きており、左右両派から孤立し過激化を深めた若い左翼集団の起こした事件という意味でも似た面のある事件なのだが、アルド・モロ元首相誘拐殺人を歴史として記憶している日本人はあまりいないのかもしれない。私も、ディスカバリー・チャンネルで放送された、テロの現代史をまとめた番組をかつて見ていなければ、きちんと覚えてはいなかっただろうから、あまり差はないか。

監禁場所のアパートでカナリアを飼っているなどのディティールは取材に基づきつつも、映画に出てくる「赤い旅団」のメンバーは虚構のキャラクターであり、モロと女主人公との想像上の内面的な交流がストーリーの主軸となる。アルド・モロは非常に聡明かつ敬虔な人物として描かれており、「赤い旅団」のイデオローグが突きつける教条的な要求に対して、宥和的態度で応じようとする。モロを演じている老優、ロベルト・ヘンリッカの醸し出す穏やかな雰囲気と、夢や空想を随所に織り込んだストーリーにより、殺伐とした恐ろしい事件ながら、どことなくセンチメンタルな映画になっている。

我々日本人としては、高橋伴明監督の2001年作品「光の雨」を想起せずにおれぬところだが、比較してみるといろいろ面白い。
この映画の場合、主人公の親たちの世代は大戦末期、パルチザンに身を投じることによって自らの左翼としての行動に裏づけを持っていたことが描写される。イタリアでは、とにもかくにもムッソリーニが民衆パルチザンの手で吊るされることでファシスト勢力からの解放を得たのであって、それがイタリア共産党が西欧最大の共産党として勢力を持つ存在であった由縁でもあるわけだろう。
いっぽう日本の場合は、昭和天皇を民衆が処刑するなどといった事態はそれこそ深沢七郎の「風流夢譚」のような妄想の世界でしか描かれたことがない(しかも読めない)。その意味で左翼集団が融和的な要人を殺害して自滅していく過程は、戦後史の節目としてより重大な意味を持ったことだろう。
また、ここに第三の政治勢力としてヴァチカンの法王が登場してくるのもイタリアならではのことだ。モロの手紙を読んだ法王は、取引ではなくモロの無条件での解放を呼びかけ、「赤い旅団」はモロの殺害によってそれに応える決意を固める。

モロは、おそらくは自分の命乞いも動機の半ば以上を占めていると思われるものの、「赤い旅団」に対して説く。
「私を殺しても、それは私以外の全ての人々が待ち望んでいることだ。彼ら(政府)にとって、私は既に死んでいるのだ。君たちは私を殺したあと、一層孤立していくことだろう」
自らがすでに政治的な生贄として位置づけられていることを認識し、イデオロギーによって盲目となった若者たちに翻意を説くこのシーンは悲痛である。それに同意するメンバーに対して「赤い旅団」のリーダーは無条件解放などあり得ず、モロを殺すしかないと言う。
「革命は博愛主義では成し遂げられない」と言いながらも、
「今は不合理で不条理に受け取られたとしても、主観的現実を乗り越える英雄的行為になる」とし、「これぞ博愛の極みだ」と述べるのだが、この台詞からは自らのイデオロギーによって自縄自縛となった若者の姿が描き出されているようである。
非人間的な行為へただ突き進んでいく盲目さ、これもまた人間性というものの否定しがたい側面なのだ。

ラストシーンは非常に美しい。歴史という時計の針を巻き戻すことはできないが、せめてイメージの世界でならば、このようでもあり得たかもしれぬ過去を呈示することは許されるだろう。

1月 29, 2005

欧州2国縦断記(その5)「美の咲き乱れる街にて、カメラ盗まれること Part:3」

ローマの街角で見つけたイイ顔さん。

lion

ローマの街角でこんなどうでもいいものをパチパチ撮っていたせいで神様の罰があたったのか、この旅行のために買ったコニカのAPSカメラが、ローマを出る頃には手元から消えていた。
あんまり意識せずにいたらいつのまにか無くなっていたため、てっきりどこかで掏られたものとばかり考えていたのだが、後に他の日本人旅行者から聞いたところでは、YHでベッドの上などにほっぽっておいたのがどうもいけないらしい。

「誰でも取れるような状態にしておくってことは"持ってっていい"ってコトかなと思う人もいるからね。 『気前のいい日本人だな−』くらい思われたかも」

などと言われたものだが、ユースホステルという場は同じ旅の者同士で気が置けない場と考えていた私はそれを聞いて少なからずがっかりし、今度旅行するにあたっては全ての機械類は一本の鎖にでも繋いでベルトに留めておかねばならん等と考えたものだ。

正面きってのカッパライにも出くわした。サンタンジェロ城からパンテオン、コロッセウムを見物して近くの地下鉄駅に行く途中のことである。西アジア系の顔だちをした母娘づれが道の脇から近付いて来、母親の方が手にした新聞を示してしきりに「読んでくれ」というような仕草をする。
イタリア語なんぞ「ボンジョルノ」と「グラッチェ」くらいしか知らず、まして読めるはずがないのだが、つい反射的にその新聞に目を落とすと、その瞬間に小学生くらいの娘の方がバッと私のGパンに手を突っ込んでくる。
「すわ、母子づれの痴漢か!?」ということではなく、娘が狙っているのはポケットの中の私の財布だ。現金は必要な分しか入っていなかったものの、カードが入っているので盗まれては困る。娘はポケットの中まで手は突っ込んできたが、私にとって幸いなことに財布を掴むことはできず、そこで私が身を引く姿勢になったところポケットの入り口がグッと締まったため、むしろ手が抜けない状況になってしまった。
私は「泥棒!」と言おうかと思ったが、さてイタリア語で「泥棒」とは何と言ったものかさっぱり分からない。
この2年前にグリークラブでチェコとハンガリーに行った時は
「いざという時に日本語でドロボウなどと叫んでも誰にも分からぬのだから、何よりも先にチェコ語とハンガリー語でドロボウと叫ぶ練習を行うべきである」などと力説し、
「ズロディ!ズロディ!」(←チェコ語の「泥棒」)
「トルヴァイ!トルヴァイ!」(←ハンガリー語の「泥棒」)
と部員に大合唱させた私であったが、その時人に与えた教訓はどこへやら、この時は頭が真っ白であった。
しばらく揉み合っているうち、なにしろ白昼のことで人目にもつきはじめたので母娘はあきらめてバッと逃げ出した。こうして私の財布は事なきを得たが、私自身は初めて正面から盗難未遂に遭ったショックでその後胸がドキドキし続け、また過剰に敏感になって周囲を始終油断なく見まわしながら歩いていたので、むしろ向こうの警官などからは不審な目で見られたかもしれない。

コロッセオから地下鉄に乗り、ベルニーニの「聖テレサの法悦」が鎮座するサンタ・マリア・ヴィットリア教会、さらにトレヴィの泉、スペイン階段と見て一日目の行程を終了。
つづいて二日目は再びサン・ピエトロ寺院を起点として、今度はローマ西方を歩くためジャニコロの丘に上る。
レスピーギの華麗なる交響詩「ローマの松」に「ジャニコロの松」という曲があるのだが、これはジャニコロの丘の上で満月に照らされる松を描いた標題音楽だ。この曲名が頭にあった私はせっかく西方を歩くのであればひとつ、そのジャニコロの松というやつを見てやろうと思ったわけである。
しかし別段この丘自体は観光地でも何でもなく、松もそこらじゅうにヒョロっとしたのがおざなりに生えている感じでどうも感慨というほどのものが出てこない。丘をのぼりきったところには病院があり、見舞いに訪れたのであろうローマ市民の車が出入りしているような、観光とはおよそかけ離れた場所だった。
逆に言えば、この丘の利点はそれゆえ観光客が全くいないことと言えるだろう。その割に眺望は素晴しくて、左手にサン・ピエトロのクーポラが一つ高くそびえ、古きゆかしき建築物がどこまでも続く眺望が眼前に広がる。不粋なビルディングなどどこにも見えない。広場には、ナショナリズム華やかなりし頃に建てられたのであろう、近代イタリアの初代王ヴィットリオ・エマヌエレ2世の銅像が屹立していた。
ジャニコロの丘を下ったあとはモザイク画が古風な美しさを出すサンタ・マリア・イン・トラステヴェレ教会に行き、さらにラファエロの名作「ガラテアの勝利」が壁面に描かれたヴィラ・ファルネジーナをまわると昼飯時になる。

レストランに入る金などないので、近場に「Pizzeria」という看板のかかった店を見つけ、テイクアウトで買ったピザにかぶりつくことになるが、庶民的ファーストフードの雰囲気があるこれらピザスタンドを少し紹介しよう。

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1月 23, 2005

欧州2国縦断記(その4)「美の咲き乱れる街にて、カメラ盗まれること Part:2」

サン・ピエトロ寺院に入場してすぐ右手には、かのミケランジェロが生涯に何作もつくった「ピエタ」のうち、最も著名な作品がガラス仕切りの向こうに鎮座しているのだが、これはもう各国観光客のフラッシュを浴びまくっており、とてもわが子キリストを襲った宿命をなげく聖母の静かな悲しみなどというものは伝わってこない。なんだか芸能人がハワイから帰ってきた時みたいな騒ぎだ。

むしろこの大聖堂で強烈に印象づけられるのは、教会という権威の過剰な荘厳化作用である。
たとえば天上はといえばどこを見上げても非常識に高いばかりで、遥か上方のドームにポッチリと開いた天窓から光が差し込んではいるもの、それらは神秘の雲と天使たちを描いた天井画ばかりを明るく照らし出している。
「かの至上の高みに位置する天国を思って祈れ」というメッセージが伝わってくるようだ。

まあ、この汚泥に塗れた地上から遥か天上の美を見上げて己を低めるというのは、決して悪いメッセージだとは私には思われないし、拝金主義よりはよっぽどマシな姿勢にすら思われるのだが、その気持ちをバッサリ打ち消してしまうのが、そこここに見られる歴代教皇の彫像である。

005

対抗宗教改革の時期につくられたであろうこれらの教皇像は、とにかくどれもこれも天使群など伴って大仰に手を差し出し僧服をハタメかせ、地上の汚濁をワレ今こそ浄化せんとばかりのパルスを放射させていて、もう見ているだけでゲンナリするような代物だ。これらの彫像の陳腐な外見こそ、ローマ・カトリックがかつて何ら世俗政治権力と変わることのない本質を持っていたことの証明であろう。
もし現代の世でカトリックがいま少し精神的指導力を発揮しようと考えるなら、さっさとこんなコケオドシはひっこ抜いて倉庫にでもぶち込んでしまったほうがよろしい。
旅をしていて何度か、イタリア人やフランス人が教会の中でみせる慎み深い仕草に触れて、信仰もないくせに勝手に感動する機会があったのだが、そうした感動に遭った時にこのコケオドシじみた教皇権力礼讃を思い出すと、なんとなく悲しい気分になる。

とはいうもののサン・ピエトロ寺院のもつ荘厳な効果はたいしたもので一見の価値はあると思うが、ヴァチカン美術館の方にはさらに見るべきものが沢山ある。とくにシスティーナ礼拝堂に描かれたミケランジェロ畢生の大作「天地創造」と「最後の審判」にはやはりドギモを抜かれた。この先も各都市で天井画は首が痛くなるほど見たが、「天地創造」のみなぎる躍動感は何かコイツだけジャンルの違う絵画なのではないか、と思わされるほどである。
観光客はみなポカンと口を開けて上を見たまま聖堂の中をウロウロしている。時折何人かの警備員が撮影を制止する声が聞こえてくる。広大なヴァチカン美術館内に展示されているほとんどの品はカメラでの撮影が許されているのだが、システィナ礼拝堂内だけは撮影禁止となっている。だがそんな禁止などどこ吹く風なのがアメリカ人観光客で、彼らは警備員がちょっとアッチ向いたと思ったら胸からぶら下げたカメラを天井に向けてブバシャアッと品のない音をたててフラッシュを焚きまくっている。
イタリアで最も観光客が多いのはアメリカ人そして日本人だと思うが、聖なる空間に土足で入り込む無遠慮な田舎者ぶりを隠そうともしないのも、やはりこの二者であるように思われる。
まあ、単に数が多いから目立つだけなのかも知れんが。

全部見るだけで一都市ぶん歩いた感じすらしてくるヴァチカン美術館を出て、サン・ピエトロの正面大通りをまっすぐ歩いていくと、左手にサン・タンジェロ(「聖天使」を意味する)の城が見えてくる。この城は、その美しい名前に似つかわしくもなく政治犯の牢獄として使われた歴史があり、スタンダールの「イタリア年代記」中の佳編「ヴァニナ・ヴァニニ」も、カルボナリ党の革命家ピエトロ・ミッシリッリがここを傷を負いながらも脱出し、ローマきっての美女ヴァニナの家に女装して逃げ込むところから始まるのだった。

この牢獄城は背丈の低い円筒形をしていてさながらラウンドケーキのような外見であり、ローマの建築物の中でも一度見たら忘れられない面白さだが、この時も一昨年の再訪時にも中に入る時間には恵まれなかった。次にローマにくることがあればこの中にあるという武器博物館もぜひ見てみたいと思う。

(この項さらに続く)

1月 22, 2005

欧州2国縦断記(その3)「美の咲き乱れる街にて、カメラ盗まれること Part:1」

欧州2国縦断記の過去記事はこちら(前口上/その1/その2

1999年2月、思いつきと勢いで旅立ったイタリア〜パリ一人旅。
ローマに到着した私を待っていたのは、夜間はスリ置き引きたむろすると言われる暗黒のテルミニ駅、その地下道を通り抜けるという試練だった。
何とかそれをくぐり抜けた私は、刑務所のごとき内装のローマYHのベッドで、内側から崩れんばかりに安眠を貪ったのである・・・

 翌朝ベッドから起きてみると、窓から差し込むイタリアの明るい陽光にふれて前夜の不安はどこかへすっ飛んでしまい、むしろあの絶対とも思われた危機を乗り越えた自分に多少の満足感すら感じられてきた。どうも楽観的というか呑気な気性というのはこういう時に得をするもので、さっそく顔など洗って身支度をし、ガイドブックをパラパラめくりながら今日の行動を計画だてているうちに、朝飯の時分になる。
 ユースの宿泊料には朝食分だけは含まれているので、朝食が用意されているという地下の食堂に降りてみると、東西各国津々浦々から集まってきた男女たちがセルフサービスのパンをコーヒー、カフェオレなどとともにパクついていた。
 こちらのカフェオレはカップではなく何か丼めいた大きさの白い椀に入れて飲むようである。このカフェオレの椀を珍しがりながらパンの幾つかと一緒に抱えてきてそこらのテーブルで食べていると、日本人の男子が同席を求めてきた。彼はやはり学生で一人旅をしているというのだが、関西弁を話しているので私の日記には「ナニワ」という超適当なネーミングで登場している。
 ナニワは一昨日ローマに到着し、昨日はまる一日をかけてローマ観光を楽しんできたらしい。とりあえず私の方は来たばかりで右も左も分からぬことでもあり、今日は一日の長があるナニワと同道してヴァチカンのサン・ピエトロ寺院に繰り出すことに話がまとまった。その後ヴァチカン美術館訪問を心に決めていた私はそのことを話すと、おれは美術なんぞに興味ないから別のとこに行くよとナニワは言う。そこでサン・ピエトロ寺院から先は好きなように別れようと決め、宿を出て二人してバスに乗る。

 ローマのバスに乗車する場合は、事前に販売所や停留所近くの自販機でチケットを購入、乗車時に車内の刻印機に通して乗車時間を記録する。
 どうもこの刻印というのが重要で、これをやらないまま乗っていて発見されると高額の罰金をとられるのだとガイドブックには書いてある。私はいちいちマジメに刻印していたのだが、ナニワはそんな刻印なぞしないでおけばチケット一枚でローマのバスは乗り放題なのだからおれはやらない、お前もやらないがよい、という。私の脳裏にはそんな挙に及んだ日には私服警備員にでも腕を捕まれ通報され、通りの向こうからサブマシンガンを抱えた憲兵警察がスッ飛んでくるなどという絵が容易に浮かんできてしまい、とてもそんな気分にはなれなかったので、この時にはこの男の豪胆さを心底尊敬したものだ。
 外国を一人旅しようというならせめてこのくらいの豪胆さは持ち合わせているべきで、私のように、ひょっとしたら現地になど行ってもいないライターが書き飛ばしたやもしれぬガイドブックの隅っこ記事に一喜一憂しているようではとてもいけない、などと考えたのだが、思い返してみればまあどちらの態度にも幾分か問題が含まれているだろう。

 さて、そんなこんなでバチカン近くの停留所に到着、歩いて寺院に向かう。
 教会の礎となったペテロをまつるサン・ピエトロ寺院はローマ・カトリック教会の総本山であり、カトリック信徒にとっては世界で最も崇高にして権威ある建築物といえる。
 寺院の前には巨大な列柱に囲まれた円形の広場があり、その列柱をすり抜けると、中央にオベリスクが屹立した広大な広場の向こうに、かのブラマンテが着工しミケランジェロがデザインしたクーポラを戴く大寺院建築がそびえ立っているはずであるが、

sanpietro

 ・・・オイ。

 そう、時はミレニアム到来を目前に控えた1999年。実はこの時期、ローマだけではなくヨーロッパ中の記念碑的建築物が来るべき21世紀を前に大改装工事のまっただ中なのであった。(この項つづく)

なお、これ↓は2003年に再び訪れた時のサン・ピエトロ寺院の写真。
sanpietro_2003

1月 17, 2005

欧州2国縦断記(その2)「「恐怖ッッ!!ローマ地獄の終着駅」」

欧州2国縦断記の過去記事はこちら (口上その1

1999年2月、当時大学4年の私は思いつきと勢いだけでイタリア〜パリ16日間の一人旅に出立した。
生協往復8万でゲットしたJAL航空券を握り締めて夜闇につつまれたイタリア半島へ飛来。
その前にたちはだかったのは・・・

さかのぼること、フィウミチーノ空港着陸の数時間前。
眼下には黄金色の粒が銀河のように暗黒の地上に散る、フィレンツェの夜景が広がっている。

私はガイドブック個人旅行−イタリア」をめくり、きたるべきローマ滞在を安全に楽しむための最終チェックに入っていた。
フィウミチーノ空港着陸後は特急でローマ、テルミニ駅にむかい、そこからさらに地下鉄とバスを乗り継いで郊外にあるユース・ホステルへ向かう事になる。
フィレンツェやミラノもそうだが、ここらのユースはけっこう中心地からは離れた場所にあって、ローマのユースもオリンピック選手村を改装したものらしい。(ちなみに五輪ローマ大会は1960年に開催されている)

なるほど、このテルミニ駅が、私のローマ第一歩をしるす地になるわけだ・・・ってチロリと安全情報をみると

「スリ・置き引き・悪徳両替屋の巣。午後7時以降に立ち入るのは出来得る限り避けるべきである」

というようなことが、不届きにもサラリと書いてあるではないか!!

ちなみにフィウミチーノ空港着陸が午後7時、特急列車に乗車してテルミニ駅につくのは午後8時をまわったころになる予定だった。

この記述と自分の予定と重ねあわせ、すぐさま私の脳裏には、カバンを切られて中身だけ持って行かれたかと思えば返す刀でサイフを掏られ、クレカをスキミングされ、あげくはコートを剥がされ、頼る者もない異国の地で丸裸同然で放り出される自分の姿がポワポワ〜ンと浮かぶのであった。

「これは絶対死ぬ」

私は心の底から恐怖におののき、神仏キリストの加護はいうまでもなく、ヒンドゥー教のシバ神・ヴィシュヌ神からペルシャの拝火教祖ツァラトゥストラ、南米アステカの有翼蛇神ケツァルコアトル、はては北杜夫よろしく古代ペリシテ人のダゴンなどに祈りを捧げる始末。

「困った時の神頼み」が唯一の宗教的信条ともいうべき日本人の典型的醜態をさらけ出す中、私の乗る機はゆっくりとフィウミチーノ空港の滑走路に降下してゆくのだった・・・。

・・というような状態で、フィウミチーノ空港に隣接した駅から特急列車に乗車する頃にはもうローマとは全く違う町にでも逃げ出したいような気分だったのだが、ああ、何と言う悪魔の所業か、この駅から出る列車は止め得ない宿命のごとく、一直線にテルミニ駅に向うことになっているのだ。
これぞ地獄の片道切符というべきであろう。

ここに進退窮まった思いを強くして列車の傍らで身を硬くしているちょうどその時、ホームの向こうから巨大なバックパックを背負った日本人男性の2人連れがのっしのっし歩いてきた。

地獄にホトケとはまさにこのこと。
幸運にも私は彼らを道連れにし、一緒にテルミニ駅へむかう段となったのである。

中央大と武蔵大のそれぞれ大学生である彼ら二人は、もう1つ別のグループとスペインを出立し、それぞれ別行動で地中海→エーゲ海ルートと北アフリカルートをたどりトルコで再会する・・・という、いかにもバックパッカーな旅を楽しんでおり、

「やはり機内食ならKLM(オランダ航空)だ、あすこはなんといっても焼きソバが出る

などといった旅慣れた話題で談笑している。
その傍ら、私はといえばスリ、置き引きたむろするテルミニ駅に至る道連れができたことへの安堵で頭がいっぱいでヘラヘラしていながら、ふと「この2人と別れた瞬間、オレはさらわれるやも知れぬ」という考えに胸を突かれてダウナーになったり、1人で感情を起伏させるのに忙しかった。

列車は1時間ほどでローマ市内へ。
突如として窓辺にオレンジ色にライトアップされたローマ帝国時代の遺構が出現したりして大いに私を感激させたりしつつ、列車はテルミニ駅に滑り込んでいくのだった。

異国の空気を胸に吸う余裕もなく、私たち3人はガヤガヤとうるさいテルミニ駅のホームに降り立った。

「ドロボーはあいつか?それともこいつか?」

などと、疑心暗鬼に満ちた眼で周囲を睨む私。

と、バックパッカー二人は私に向き直ってこう言った。

 「じゃ、僕らこのあたりで宿探すんで、ここで」

 えt?

一瞬何を言われたかよく理解できていない私を駅に残し、快活に手を振りながら夜のローマに消えていく二人。

この精神状況で置いてきぼりはあまりにもツラすぎる!と思いはしたものの、日本のYH協会から今夜の滞在を予約している以上このまま「じゃーオレもおんなじとこ泊まるー」とか言ってホイホイついていくわけにもいかず・・・いや、本当はこの時そういう行動をとっても良かったはずなのだが、その時の私にそんな機転などありはしなかったのである。

かくして取り残された私には、一人になって悩む余裕はなかった。ローマのYHには門限があり、何としてもそれまでに宿に到着せねばならぬ。しかも地上ですらものすごーく不穏な雰囲気なのに、ユースに行くにはさらにこの駅の地下にある地下鉄乗り場へ降りていかなければならなかった。

ザワザワと地下から這い登ってくる、いかにもガラの悪そうな声。
私は意を決して地獄の釜のように口を開いた地下鉄行き階段へと踏みこんだ。
そこは・・・。

03_1

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1月 14, 2005

欧州2国縦断記(その1)「ローマ、フィウミチーノ空港まで」

欧州2国縦断記の口上はこちら 

というわけで1999年2/1(月)、
成田より私を乗せたJAL機はローマへ向けて不可逆的に飛び立ったのである。

不可逆的に・・というのはこの時の心象で、どういうことかと言うと不肖ワタクシ離陸直前まではまだ見ぬ異国への夢にドキドキワクワクと胸膨らませる一方だったくせ、いざ飛行機が飛び立つとなると

「ちょっと待てオマエ、誰も頼る人もいない外国で、英語ひとつ喋れないくせに、ホントに生きて帰れんのか?」

という、もっと早い段階で克服しておくべき不安がムラクモのごとく湧き出、
「・・・・来るべきではなかったのでは!?」という思いに満たされたというわけである。
なんと考えの浅薄な奴と自らを笑おうにも、機は高く雲の上まで飛び立っている今や取り返し不能というこの状況。
私は突如として、国際線機内に迷い込んだ一匹のチキンと化したのであった...(((( ;゜Д゜)))ガクガクブルブル ((((

そんな中、機内で私の心の支えになってくれたのが、隣の席に座したスコットランド系のカッコいい姓をもつオーストラリア人、Rosalieさんなのでした。

real_rosary
リサ・スティッグマイヤー似の美人さんなのである。ミラノ・マルペンサ空港にて写す

そんなわけで長い空の旅をこれからの一人旅の予行演習の場と化すべく、私は蛮勇をふるって初めての対外国人女性コミュニケーションを敢行したのであった。

幸いにもロザリーさんはファンタジー小説がお好きと判明、J.R.R.トールキンであるとかC.S.ルイスの話題で盛り上がり、続けて映画の話題に。
チャップリン好きなの?いいよねー、バスター・キートンは?知らない?えーっとオレの知ってるオーストラリア映画っていうと、ピーター・ウィア−の映画とか・・あっ知らないヒトですか・・あとはえーと、「マッドマックス」?(墓穴)などといったほぼ空回り的な映画トーク。
彼女は"Lock, Stock and Two Smoking Barrels"という映画がオススメということだったが、この時の私にとっては初めて耳にするタイトルであった。「ロック、ストック&トゥー・スモーキン・バレルス」が、この後シネセゾン渋谷(ライズだったかも)ほかで公開され、大いにブレイクしたのは周知のとおり。

ファンタジー小説を読みつつサーフィンやスカイダイビングにも興じる私とは正反対に活動的なロザリーさんは、普段はメルボルンでコックをやっていると言う。そこで私は「ダイコンはミソ・スープに入れて食うと旨いでがす」というようなコトを絵解きで説明したり、クロサワのおすすめは何と言っても「蜘蛛巣城」・・シェークスピアの「マクベス」が原作なんスよ、えーと英訳すると"The Castle of Spider"かな?なーんて感じのやくたいもない話題で機内の時を過ごしたのであった。
(なお「蜘蛛巣城」の実際の英題は"Throne of Blood "なのだそうである)

そのような、かなり暗闇手探り的交流タイムなどを経つつ、機はいつしかシベリア上空を通過、ワルシャワ〜プラハ〜ウィーン上空を通り、ミラノ・マルペンサ空港での給油を経ていよいよローマに近付くのである。

夕闇に染まったマルペンサ空港上空から眺めるミラノの街は、一見すると、まるで大きな星印が煌めきながら真っ黒な大地の上に置かれているようにみえる。街の中心地から周囲に向かって道路の明かりの線が傘の骨のごとく放射状に広がっており、それらの傘の骨を、こんどは城壁跡に敷設された道路と思われる細い光の線が蜘蛛の巣の横糸のように結び付けている。このような構造でできている夜景をみると、「ついに欧州に来たのだな」と感慨を催さずにはおられなくなるのだった。
写真が撮れなかったのが惜しくなるいっぽう、いつまでも思い出の中で美化するままにしたくもある、幻想的光景だったことを今でも思い出す。

時刻は同日19時をまわったころ、ローマにいよいよ着陸するとなって私のチキンぶりは最高潮となり、
「やばいよやばいよ」という意味のつもりで"I'm ナーバス"を連呼する(←余裕で間違ってます)。
そんな私にロザリーは優しくフォローを入れてくれる。オーストラリア人のコックに悪人なし。
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ローマの空港は「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の別名を持つフィウミチーノ空港。ここでペルージャから迎えに来る友人を待つというロザリーと別れる。別れ際に軽くハグ。
ご挨拶程度のものだろうけど、あるいはよっぽどビビっている私に母性本能でもくすぐられたものかも知れぬ。

ますます心細さアップで挙動不審な私にニラみを効かせる空港警備の警官。一秒間に百発くらい出そうなサブマシンガンを抱えて私をサングラス越しにジロリと見るのであった。
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これからが思いやられ過ぎるゼ・・とデカい空港をトボトボと横断していく私の前に、さらに過酷な状況が待ち受けていたのであった。

NEXT 「恐怖ッッ!!ローマ地獄の終着駅

see you(^_-) 

(↑円さんのパクリ)

1月 12, 2005

1999年2月 欧州2国旅行記

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何回かにわたって、1999年2月に行ったイタリア・フランス旅行の記事を掲載しようと思う。
かれこれ6年も昔のネタを何を唐突に・・・と思われるだろうけど、随分昔に旧サイトに掲載しようと思って作画したイラストやら、行った時の写真やらが引越しを機に出てきたもので。
寝かしておくのもナンだなという至極短絡的理由である。

何でタイトルが「てくてく」かというと圧倒的に歩きまくって旅したから・・・という、これもあまりにも単純な、ネーミング所要時間3秒的名づけである。
なんせ旅行の終盤に至ってはブーツの踵が破れて歩くたびにペコペコ音がした。
向こうで両頬の親知らずがムシバになり激痛に悩まされたこともあったので「歯痛欧州縦断記」としてもよかったのだが、歯痛になったのはパリでの話だったのでやはり全体を総括するとすれば「てくてく」であろうと思う。

なお、行った都市は順に「ローマ」→「フィレンツェ」→「ヴェネツィア」→「ヴェローナ」→「マントヴァ」→「ミラノ」→「パリ」。大体全体の行程で20日ほどだった。

しばらくネットカフェ接続なので順調に毎日アップというわけにはいかないと思いますが、暖かく見守ってやって下さい。