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2月 19, 2005

夕食blog:アスパラとほうれん草のパスタ

050219_dinner

今日はアスパラとぶなしめじが安かったので、ほうれん草とベーコンと一緒にオリーブオイルで炒めた。
すげー長い間余ってたブロッコリも大丈夫かなと思いつつほうれん草とともに茹でて入れる。

んむ。ぼちぼち。

都市伝説「当り屋情報」に出くわした

去年の8月ころに、「ラブラドル犬の子犬30匹が処理されてしまうので、引き取り手を探している」という流言にハマり、それを私がMLに流したことによって色々な方にご迷惑をかけたことがあった。その節は皆様失礼しました。
その後私はくやしさのあまり、この種の流言や都市伝説について少し調べてみようと何冊か本を読みあさっていたのだが、その中で面白いなと思いblogにも書きとどめた「当り屋情報」という都市伝説がある。→該当エントリ

「山口・関西方面から当たり屋のグループが北上中であり、早晩この周辺にもやってくるから注意せよ、これを見た人はできるだけ友人や知人に知らせよ」というのが概要だ。この都市伝説(または流言)の持っている性質は私がハマったラブラドル犬のチェーンメールにも類似する部分があり、掲載されていた「現代のエスプリ別冊 流言、うわさ、そして情報」の中でも、個人的にことのほか興味をひかれる研究だったと記憶している。

なので、昨夜職場で斜め後ろの席から「当たり屋が山口から来てるんだって」という会話が聞こえた時にはピンときた。
その話何?と聞いてみると、どうも派遣で来ている営業さんにあてて親会社から「当たりやに注意」というメールでの知らせが入っているらしい。
中身を見てみるとこれが、いちいち私が本で読んだ内容と同じなのである。すぐにメールの発信元に電話をかけ、これが都市伝説であることを説明したうえで、社内に対してもこの話を無駄に広めることのないよう注意メールを出したのだが、まさかあの時の勉強がこんな形で役立つとは思われず、実に面白かった。

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かぶき者、ほりえもん

ライブドアとフジテレビ関連のニュースには、実を言うと今のところあまり興味ない。
ただ、このニュースを語る人が、堀江賛成派は「あの人なら」と、反対派は「あんなやつに」と、おのおの「メディア論」ではなく、「堀江論」を語りはじめてしまう点は面白いと思う。
「ほりえもん」と友達になりたいかどうかは別として(^^;)やはり注目を集めるキャラクターであり、色々批判を浴びながらも人々に「愛されている」ことは間違いない。ご本人が愛されたくてああいうキャラなのかどうかは謎ですが(堀江氏本人はメディアを通じてチマタで流布している自分のイメージをあまりお気に入りではない御様子であるし)。
人々は堀江にいったいどんなキャラクターを演じてほしがっているのだろうか?

堀江論として面白いなと思ったのが、相変わらず孤高の女一匹ぶりが頼もしいmick嬢のblogで紹介されていた「江川紹子ジャーナル」の記事。
江川紹子は、堀江がメディアに対してどういう考え方を持っているのかという問題があまり報道されていないということで、インタビューを試みている。以下はその引用。

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「女性はなぜ自分の性を忌避するのか」という件について

昨日の飲みは面白かった。相手はこのときとかわりばえしないが・・2時半くらいまで飲んだかな。
ゴスロリはなぜメイド服風のファッションに行くのかという話から、彼女たちがそのメイド服を思わせるファッションで護持しようとする「少女性」と、秋葉系などの男がメイド服に萌えてる部分とは相当の開きがあるという話、それゆえにゴスロリはメイド服によって女性性を隠匿する方向にむかい男のメイド服好きはアンミラ的な世界にむかうことで、おのおのはメイド風という意匠だけを同じくしつつもその意味を乖離させていくのであるという説。また女の子たちはなぜ少女性を求めるのかという問題から、女の子は女になることがイヤであること、男性から性的対象とみられることを重荷に感じ、それを認めたくないと思ってしまう場合があるのはどうしてかという話まで展開していく。

二人とも見てはいないが、ソフィア・コッポラの「ヴァージン・スーサイズ」という映画があった。
見ていないので中身についてどうこうということはできないのだが、ヴァージンのまま自殺するという少女性の保存行為、それが暗に示している「女になることの拒否」があれだけ広く支持を集めたことからも、女の子は自分の女性という性を受け入れることに抵抗があるのだということは想像可能である。
男は別に積極的に童貞のまま死にたいとか思わないからな〜。「童貞であって何が悪い」という宣言や居直りはあっても。

この抵抗感が社会構造のなせるわざだということは簡単で、それはフェミニズム的視角として重要でもあり決して軽んじるつもりはないが、どうも論が大文字のハナシになるのが、私的には気に入らない。
といって、「やはりそれは月に一度の、自分の中の汚れを排出して小さな死を迎え生まれかわるという独特の性質が働いているのではないか」などという、まるで佐野眞一のような論法(笑)で説明しようとしてみたものの、やはりちょっと全てを言い当てているようにも思えないし、そもそも生理時の女子の出血が「ケガレ」であるという認識自体が民俗的な社会通念の一つであるとも言える。
生理を迎えることが女の子にとって何らかのアイデンティティ的意味を持つのは間違いないのだろうけど、やはりそれは男性には想像の埒外のできごとであるわけで、だからこそ女の子というのは男にとっては不可解で興味深い対象であるのだ。
(そういう意味では、男というのはまったくもって底の浅い、面白みのない生物だと思う)

けっきょく「なぜ男は自分の性を忌避することがなく、女にはその忌避があるのか」という問題の結論は出なかったが、あるいは単純に「男は自分の性を自覚することがなく、女には自覚がある」というだけのことなのかも、と今思った。
「男らしさ」なるものは確かに存在する観念なのだけど、「男性であること」は、意外と男自身には知覚されていないのではないか。だからこそ、フェミニズム的な用語として「セックス」と「ジェンダー」というコトバの区分けが発生してきたのだろう。
女はセックスとしての女性を自覚せざるをえないが、男は「セックスすること」には多大なる興味があるものの「セックス」=「性別」としての男性には驚くほど自覚を持っていない、であるがゆえに女性論の地平が出てくるまで、事実上「セックス」と「ジェンダー」は未分化だったのだ。というか男が考える限り、セックスはジェンダーの中に含まれる一部分でしか有り得なかったのだとも言えるのかも。
って、別にフェミニズムについて勉強したことがあるわけではないので、あるいは語義の捉え方がいちじるしく間違ってるかもしれません。ご了承あれ。

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2月 17, 2005

小論文自動採点エンジン。

iioさんのCLASSICAで紹介されていた、小論文の自動採点エンジンJESS先生に、当ブログの1エントリを採点させてみるテスト。

回答文は銭湯によく見られるムダなホーロー広告を熱く論じてみた「私は銭湯のホーロー広告を愛する」エントリ全文で、問題文を
「銭湯のホーロー広告が愛されるべき理由を述べよ」
と設定して判定させてみた。

こうみえても、浪人生時代は代ゼミの小論文模試で全国一位をとったことがあるので、論理性には自信があるゼ!

さて、結果は?

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2月 15, 2005

味玉落下

土曜に部屋を掃除中 、机の下に潜って拭き掃除していたところ角っこに左のこめかみをぶつけ、反動で後頭部が天板に激突。それ以来ちょっと頭が重い。飲み過ぎかなとも思っていたのが、医者行った方がいいんだろうか。

そして今日は日高屋で味玉しょうゆラーメンを食いつつ佐野眞一著「カリスマ - 中内功とダイエーの戦後」を読んでいたら、ちょうど中内が神戸高商に入学したあたりで割り箸から味玉が丼の中へツルリと滑り落ち、ラーメンのツユが飛散。
そんなわけで続きを読もうと本をひもとくたび、しょうゆベースの匂いがほのかにしてしまうのがちょっと鬱。

そういえば「失われた時を求めて」の続きも全然読んでいない。4巻の半ば、「私」が友人サン・ルーが寄宿する兵営に遊びに行っていらいまるで進んでいないのだった。こんなことで30前に全10巻を読み切るという遠謀を達せられるのか。急がねば。

2月 14, 2005

グリモーのショパン

エレーヌ・グリモーはもっとも好きなピアニストの一人だ。
彼女が得意とするラヴェルのピアノ協奏曲(ガーシュインとカップリングの盤ね)も素晴しいもので気に入っているのだけど、最近の演奏ではベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番がおさめられたCDが傑作。前作「クレド」も、この時代状況を暗示するような現代音楽作曲家ペルトの激しい作風が印象的な意欲作で感心させられた。

そのグリモーが、私が最も愛するピアノ曲であり、自分の葬式にはぜひ流してほしいと願うショパンの「舟歌」をおさめたCDをリリースするとあっては、CDを買い控えている昨今でも買わざるを得ないではないか。(「ガーター亭別館」さんでこのリリースを知りました。多謝)
grimaudchopin
ショパンのピアノ・ソナタ、子守唄、舟歌とも、フランスの女流ピアニストという先入観からはとても想像のつかない、ダイナミックで力強い演奏である。「舟歌」などは、すこしこの作品にしては力強すぎるのではないかという感じ。ツィマーマンの演奏などを想起させるかも。
うーむ、これは自分の出棺の時に流すにしては少々ハデかな、などと謎の評価基準で聴いてみる。
むしろ演奏がより素晴しいのはピアノ・ソナタ第2番。これは私がかねて好んでいたルービンシュタイン盤よりもさらに感動的で、イイ。よい買物をさせていただきました。

ジャケ写、もともと頬こけ美人のグリモーだが、これを見るとそれがますます強烈になり、まるでイヌ顔に見える。あるいは彼女は狼を飼っているというので、飼い主がペットに似てきたのかも知れん(失礼)。

出光美術館「源氏絵 - 華やかなる王朝の世界」

今日は夕方までゆったり、活動のための下準備でもしようかと考えていたのだが、不意に東京に出てきた母の相手をすべく東京駅まで出向く。

何か見に行こうかと色々検討した結果、出光美術館で開会中の展覧会「源氏絵 - 華やかなる王朝の世界」を見に行く。
源氏絵とは、言うまでもない本邦最古の長篇物語小説といえる「源氏物語」の名シーンを屏風絵、扇絵などの形でビジュアライズした作品群を指す。
おそらく大半の男性にとって、源氏物語というのはその小説としての歴史の深さは別としてどうでもいいような物語である。だいたいが、光源氏なる金も権威もバックに持ったジゴロ野郎が可愛い女子を垣間見て(現代的表現で言えば覗き見て)はヤり放題の、結構なお話ですなあという感じ。
こんな浅薄な筋運びのものによくもまあ女子たちは惚れ込むものだと思われるのだが、やはりディティールの演出力が抜きん出ているが故にこうも愛されているのだろうな、と、ギャラリーに展示された源氏絵の数々を見ていると納得せざるを得ない。なんだ、このノゾキ野郎はという気にもなるが。

特に感心した名品は、海北友松なる絵師の仕上げになる、「扇面流貼付屏風」。これは室町時代に扇の面に描かれた源氏物語絵を収集し、桃山時代の絵師が流水を描いた屏風の上に適宜貼付けた作品。王朝の香りを携えたコラージュの美。2世紀の時を超えたコラボレーションと見ても感慨深いものがある。「RIMPA」展で感じ入った「色紙貼付桜山吹図屏風」の、別世界に通じる窓を随所に配した感動的な構想の根源が、こういった時を超えたコラボレーションの中に見えてくるではないか。
また俵屋宗達の筆になる「源氏物語図屏風残闕 - 桐壺」も面白い。この画の中に出現する宮の床装ときたら、青と白の市松紋様になっており、さながらペルシアあたりの宮殿のようなのである。宗達をはじめとする琳派の斬新きわまりないデザイン感覚が発揮された物語絵といえるだろう。
さらに狩野探幽の筆になる「源氏物語 賢木・澪標図屏風」なども、圧倒的に洗練された画面構成が素晴しい。「賢木」とは、さんざっぱら色狂いをし遂げた光源氏が、かつての恋人である六条御息所の住まいを訪れて「わたくしの思いはこの木のごとく変わっておりません」などという意をこめて常緑の榊の木を捧げるという、オマエ今さら何をしらじらしいこと言ってんのとツッコミを入れずにはおられないようなエピソードなのだが、探幽の筆はそのエピソードを物語りつつ、屏風というインテリアとしても完成度の高い図柄に結晶させていて、これはこれで中々得難い世界を演出しているのだ。

他にも金蒔絵の硯箱や絵文庫など、わが国の工芸文化の極みともいえる名品をあまた展示した、大変楽しい展覧会なのだった。

2月 13, 2005

個人的に祝・ロメールコミュ100人突破・んでリヴェットコミュも探したらやっぱりありました

超個人的ながら、mixi内につくった「エリック・ロメール」コミュニティが登録100アカウントを超えました(^^)
99アカウントになった時点で「もうすぐ100人ですねー管理人としては嬉しいです」って掲示板で書いたらその途端に97アカウントに減ったため「オレのせいか!?」と激しく落ち込んでいた(^^;)ので、100アカウント突破はなんとなく喜ばしい。
別に数が多いことが誇りになるようなことじゃないのは分かってるが、こんなにロメールの名前に人が集まることに感動したのは、数年前に某巨大映画BBSでロメールの映画タイトルを挙げたら何人か書き込んでくれた時以来なのだった。はしゃいで何が悪い。(居直り)

ところで、ヌーヴェル・ヴァーグの映画監督としてはゴダール、トリュフォーに比べ何倍もマイナーなロメールだけど、さらにジャック・リヴェットなどはもっともっと通好みな作風である。コミュニティを探してみたらやっぱり存在したので参加してみた。
ジャック・リヴェットといえば近作「恋ごころ」は素晴しかったし、かつての作品でいくと「地に堕ちた愛」「修道女」なども面白い作品。
最近作「Mの物語」は悲しいことに一瞬のうちにシネパトスルーしてしまい見られなかったが、もうDVDがリリースされているようだ。ううむ、買いか?
ちなみにリヴェット作品で恐らくもっとも有名な「美しき諍い女」は未見。だって長そうだし・・・って言ったらリヴェットにはもっとキチガイみたいに長い「アウト・ワン」なんて映画(12時間!)もあるのでそんな甘いこと言ってるようではついていけないはずだが、ま、いいでしょ。

(→このページを見るかぎりけっこう面白そうにも思える。なお、「アウト・ワン」の長さはギネスブックにも載っているそうで、何と言うか。)

読了本−柏木博「20世紀をつくった日用品」、A.J.クィネル「燃える男」、東野圭吾「片想い」

このところ毎月そうなのだが、以前より飲みに行く機会が格段に増えるとともに収入が減退しているためか、月の二週めに入ると2,3万しか手元に残らなくなる。
それなのでせっかくの3連休(金曜はすこし出勤したが)ではあるが、外出はなるべく避けて家で本を読んだり、私用を片付けたり、料理したりして在宅ノリを楽しむことにしたのだった。
明日はちょっとしたホームパーティー(このエントリでふれた40代半ばルームシェアおやじんち)に呼ばれているので出かけるくらいか。

そこで2月に入って読み終えたいくつかの本を紹介。
柏木博「20世紀をつくった日用品」(晶文社)についてはこのエントリでも少しふれた。もともと著者が日本経済新聞に連載していたものを一冊にまとめたもので、なるほどそれで一つ一つの項目がコンパクトでよくまとまっているのかと合点。副題にもなっている「ゼム・クリップ」や、「アルミ・フォイル」などの今も我々の生活に生きている日用品はもちろんだが、「大八車、リヤカー」「白手袋」などの、20世紀の間に人々の生活の中から姿を消したものなどもある。(こうしたいつのまにか使わなくなったものについての本「ゴーイング・ゴーイング・ゴーン」という本もアメリカにはあるそうだ)
笑えるエピソードとしては「ナイロン・ストッキング」の項。

工業生産の最初の合成繊維「ナイロン」の命名は面白い。(中略)当初、(デュポン社の技術者の)カロザーズたちは、強い繊維なので、名称を「ノー、ラン(NO RUN、破けほつれない)」に決定した。しかし実際はほつれた。そこで、名称のバリエーションを考えた。「ヌロン(NURON)」という響きでは脳「NEURON(神経細胞)」のようだし、「NULON」では特許名として平凡だ。結局、「NYLON」に決定した。

いつか、まったく伝線しないナイロンストッキングが出現した時は、誇りをもって「ノーラン・ストッキング」と名付けられることだろう。なんだか野球みたいだが。
20世紀に急激に発展した「通信」をめぐる様々なエピソードには感慨深いものがある。最初の無線電信が実施されてまもない1898年、イギリス郵便局の主任技術者は「貯蔵した膨大な電気的エネルギーを電信のシステムへと振動できれば、火星の人たちと電話で会話が可能だ」と述べたそうだ。
また、ある新聞記者は無線電信を実現した発明家マルコーニをインタビューして「無線は、数百人にかわって数百万人に利益をもたらす民主的発明に思えた」という。
「マルコーニの無線は、世界を結ぶことで平和をつくりだすだろうと考えられてもいた」と著者は書くのだが、このくだり、どことなくインターネット黎明期の言説を思わせないだろうか。実際には無線通信の技術は20世紀中葉にはレーダー技術など軍事目的に応用されていき、かたやインターネットは現在、サイバーテロの舞台とさえなっているのだが、どんな新技術もそれが善のために使われるはずだと考える人々はいつでもいるものだと思う。
この事実をもって皮肉を感じる人もいるだろうけど、私はそうした夢想が愚かだとはまったく思わない。善を思うことができ、善を行うことができるということは、人間にとって最大級に貴重な資質であるはずだからだ。
というわけで、まだまだたくさんのエピソードが紹介されている非常に面白い本。ときどき手にとって読んでみてもいいだろう。

A・J・クィネルの冒険小説「燃える男」(集英社文庫)は、いわずとしれた映画「マイ・ボディガード」(原題"MAN ON FIRE")の原作。この作品の存在とそれが冒険小説ファンの間で傑作とされていることは、1992年に早川文庫から出た「冒険・スパイ小説ハンドブック」のランキングで15位に推されていることから知っていたのだが、映画をみてあわてて手にとった感じである。
映画ではメキシコになっていたが、原作の舞台はイタリア。主人公クリーシィは対テロ部隊ではなくフランス外人部隊の歴戦の勇士であり、外人部隊を辞めてのちは傭兵として世界中の戦地を転戦してきたことになっている。もうひとつ映画は原作の重要な部分を改変し、第2のヒロインの登場あたりもバッサリ切っているのだが、後の筋書きはおおむね原作の息遣いを伝えるものだったようだ。平和に暮らす老夫婦の軒先を借りて敵組織の大物の防弾車をRPG(ロシアの携行ミサイル)で吹き飛ばすシーンや、あの凄い使い方をする爆弾も登場する(^^;)。
前半はいまひとつストーリーに乗り切れないうらみがあるが(特に映画ではクリストファー・ウォーケンが演じていた役柄であるグィドー・アレッリオの過去を語るあたりなどは少し冗長に思われる)、主人公クリーシィがボディガードとして守る子供ピンタと徐々に心の通いあいを経験していくくだりからは小説にぐいぐいと引き込まれる。ピンタは非常に理知的な少女でクリーシィの愛情を得るために様々な作戦を打つのだが、このあたり、映画化するならこの役はダコタ・ファニングでなければいけなかっただろうと思わせるところである。

クリーシィは彼女の質問につねに納得のいくまで答え、大人に話しかけるようなしゃべり方をした。子供にやさしく話す手管は持ち合わせなかった。これにたいして彼女の反応はしばしば挑発的だった。彼にとってこれは新鮮で制約のない心との初めての接触だった。気がついてみると彼は議論の的になる問題を彼女の目で見ていたのであり、それは刺激的だった。

また少女の方も、元傭兵との対話をこんなふうに体験していく。
要するに、全世界は広大で未開拓の、魅力的な領域だった。自分はいま、発見の一歩を踏み出しているのだ、と彼女は感じていた。クリーシィは彼女の案内人になった。母親は自分だけの限られた世界に生きていたし、父親は彼女をあまりにも子供扱いし、彼の態度や会話にこれが反映していた。だからクリーシィは啓示だった。そして彼女は、彼の言葉をただ聞くのでなく、あれこれ批評を加えることが重要だと、すばやく感づいていたのだった。

こうした豊潤な対話と触れあいを経て、殺人のプロであった大男と可憐な少女が心を通いあわせ、映画では「希望をなくした人の守護聖人、聖ユダ」のペンダントを贈る最も感動的なシーンとして結実しているあのつながりを確立した時、誘拐犯罪という最も憎むべき邪魔者がクリーシィと少女ピンタの間を引き裂く。
小説はこの後、病床から復讐のために立ち上がり、傷を回復して戦旅に立つまでの第2部を経て、第3部で大きな盛り上がりを見せる。映画ではジャンカルロ・ジャンニーニが演じていた役どころのイタリア憲兵隊(カラビニエリ)マリオ・サッタ大佐は非常に魅力的なキャラクターで、推理小説、一流レストランでのランチ、魅力的な女性に自分の手料理を食べさせること、食後のバックギャモンをこよなく愛する洗練された紳士。彼とグィドーが復讐のための殺戮を繰り広げるクリーシィを追うことで、小説の後半は復讐劇と追跡劇のふたつのストーリーラインを得、いっそう息詰まる展開になっている。
映画をみて面白く感じた人には、ぜひ原作も一読してみてもらいたい。私がもっとも気に入ったのは中盤まででクリーシィとピンタの絆が紡がれていくところだが、後半の冒険小説的展開も素晴しい。

最後はりさんから借りた東野圭吾「片想い」(文春文庫)。
まだ読んでいない人に対してはいきなりネタばれになるので、もし読もうという人がいるならこれ以下は興醒めなので読まない方がいいかもしれない。

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