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12月 31, 2005

2005年映画ベストはつけられん

それにしても、今年は本当に映画見てない年だった・・・。反省。
どっちかというと「24」シーズン3&4を一気に見たことの方が印象的なくらい。

今年、とりあえず記憶にとどめておきたい映画は
クリント・イーストウッド監督「ミリオンダラー・ベイビー」一本くらい。
これは本編の上映が開始すると同時に泣きそうになるくらい、完全に映画にシンクロしてしまった。
あと一本あえて加えるなら、こうした共感と地平とはまったく隔絶された「女子高生の援助交際」という世界を描出しつつ、思わぬ仕掛けを使ってこの上なく哀切な「別れ」のシーンを演出したキム・ギドク監督「サマリア」を挙げたい。
あのラストは本当に切なかった。

よくできた映画、気に入った映画ということでいえば、トニー・スコット監督のセンチメンタルな冒険活劇「マイ・ボディガード」(むしろ去年の映画かな?)とか、デヴィット・エリス監督のスリラー「セルラー」とか、アレクサンダー・ペイン監督のダメ男それなりにがんばろう映画「サイドウェイ」とか、生命倫理について考えさせられるアレハンドロ・アメナーバル監督の「海を飛ぶ夢」、何かこれからもおもしろいものを見せてくれそうなジョニー・トー監督の「PTU」「ブレイキング・ニュース」とかあったけど、ムリしてベスト5とかベスト10とか数えるほどの体力はないです。

いっぽう、ひどい映画はたくさんあった。期待させといて何だという腹立ちを抑えられぬクリストファー・ノーラン監督「バットマン・ビギンズ」、危惧していた通りのゴミ映画だった「戦国自衛隊1549」、単に染五郎見せるだけの映画だった「阿修羅城の瞳」など、特に邦画方面で駄作ばっか見ちまった。やっぱシネコンばっか行ってちゃだめですかね。

いっぽう、DVDで見たクラシックな映画には感銘を受けるものが多かった。レオ・マッケリー監督の「邂逅(めぐりあい)」、ロベール・ブレッソン監督の「ブローニュの森の貴婦人たち」、アルフレッド・ヒチコック監督の「ファミリー・プロット」などは特に印象深い。まあ、おもしろくて当たり前のタイトルばかりだと言われてしまいそうだが・・・。

やはり本数をある程度見ないと面白い映画に当たる確率も少ない。来年はもう少し劇場に足をまめに運びたいと思う。

2001年〜2005年までを振り返ってみる

21世紀最初の5年間が終わろうとしている。

2001年〜2005年の5年間は、私個人にとっては「社会人」として生活することを学んだ5年間といえる。2001年2月、5年で大学をようよう卒業した後の私は、院試に失敗した過ちを繰り返すかのように数々の就職活動も水泡に帰し、バイトで働いていた現雇用先に拾われるような形で正社員雇用されたのだった。それから幾星霜、2005年に出向という立場で現在の職場で働くことになるまでの5年間。この間、様々なドタバタや屈折はあったものの、それを語ることはこの文章の主眼ではない。

一方で世情を想起してみたとき、私がまとめに使ってみたいフレーズは「オサマに始まりヨン様に終わる5年間」というものである。(ダジャレ?)

2000年期最初の世界史的重大事が、2001年9月11日に起きたニューヨーク世界貿易センタービルへのテロ攻撃であった事は誰しもが同意することだろう。この事件は、平和な現代文明を謳歌する私たちが、「ここが戦線の単なる後方にすぎないことを忘れる、いや、忘れたふりをし続ける」形で隠蔽してきた矛盾・脆弱性を、文字通り白日の下に引きずり出した。
人々の盲目的に消費へむかう欲望には大きな疑問符が殴り書きされ、豊かさへの根拠なき展望は破壊され、不安と怯えに満ちた現在へ、そして将来に横たわる暗黒へと、人々の視線はゆり戻された。

9.11に引き続くアフガニスタンへの空爆やイラク戦争は、本来そのような戦い方が有効でない分散型ネットワーク組織に対して、旧型の覇権的国民国家が徒に自らの軍事的リソースを消費する祭りとして現出した。結局のところヒュドラの頭をひとつだけ潰す以上のものにはなり得ないことを知ってか知らずか、いつ果てるとも知れない盲目的な戦争が繰り返される。フセイン元大統領の逮捕が、実現するとほぼ同時に忘れ去られていったのがその典型といえる。かの地では、「独裁者を倒せ」というかつての叫びはどこへやら、鮮度の落ちた敵は直ちに過去のものとなり、あたかもつんくプロデュースによるアイドルの生産工場のごとく、新たな「大物テロリスト」が次々とメディアにデビューしては、非人道的な戦争を戦い続けている。

この12月、私は1993年に劇場公開された押井守監督のアニメ映画「劇場版 機動警察パトレイバー2」をやたら何度も見ていた。カンボジアPKO活動が国内で大議論を巻き起こしていた時代に「自衛隊内の一部の決起部隊が首都に現代版の2.26事件を引き起こす」というストーリーのこの映画が製作され公開された事は、'90年代の日本映画史におけるかなり重大な事件と思われるが、そんなことはアニメファンしか言わないかもしれない。
繰り返し見るにつけ、この映画が描いたものは2005年の現在でも衰えなく有効であると感じる。上に引いた「ここが戦線の単なる後方にすぎないことを忘れる、いや、忘れたふりをし続ける」というフレーズは、この劇中に登場する以下のセリフの一部である。

「単に戦争でないというだけの消極的で空疎な平和は、いずれ実体としての戦争によって埋め合わされる・・・そう思ったことはないか?/その成果だけはしっかりと受け取っておきながらモニターの向こうに戦争を押し込め、ここが戦線の単なる後方に過ぎないことを忘れる。いや、忘れた振りをし続ける。そんな欺瞞を続けていれば、いずれは大きな罰が下されると」
「罰? 誰が下すんだ。神様か」
「この街では誰もが神様みたいなもんさ。居ながらにしてその目で見、その手で触れることのできぬあらゆる現実を知る、何一つしない神様だ」

決起部隊の策動を未然に防ぐべく、首都は自衛隊の戒厳状況下に置かれ、夜の東京に戦車部隊と装甲車部隊が続々と乗り入れてくることになるが、一夜明けるとその「戦時モード」はどこへやら、戦闘機械たちは日常的風景の中にすぐさま回収されていく。
雪に閉ざされていく首都の景観の中で、少しばかりの違和感を伴いながら日常へ回収されていく「戦争」・・・。
この映画が12年を経た2005年に到ってもいまだ刺激的である理由は明らかだろう。

社会はその根底に不安を幾重にも重ねながらも、その基本的なふるまいを変えようとすることはない。忘れたふりをし続ける身振りは、最初の砲声が鳴り響くまで、いや、あるいは砲声を聞いたその後でも、わが悦ばしき「総中流社会」で明日を迎えるために、人々が今日も明日も繰り返すビヘイビアであり続ける。

あらゆる危機が日常の中に回収されていく情景の中、私たちは米国農務省の不誠実を見ないふりをしてアメリカ産牛肉で作られた肉を食べようとし、人命よりも利潤を優先するデベロッパーの悪者面を見ないふりをして耐震強度の疑わしいマンションに住み続けようとしている。
その不安や憂いを、韓流ドラマに流す涙や来日スターへの熱狂の中で水に流しながら。

というわけで、
あー、ようやく「オサマに始まりヨン様に終わる」ってフレーズの説明終了。

さて、次の5年間では何か違う流れが生まれてしまうかもしれないという思いもある。
日本人が戦後の経済発展の中で得てきた「総中流社会」という条件が、ここにきて激しく揺さぶりをかけられていると感じるからだ。

2005年に特に印象的にわれわれに意識された概念は「社会の階層化」だといえるだろう。「下層社会」「ネオ階級化」「年収300万円時代」は、特に「SPA!」を中心とする20代〜30代サラリーマン向けメディアの支配的ワードとなった。
「総中流」の時代はかつてそのようであったものとして回顧される対象となりつつあり、多くの若年世代は、自らの給金が安いという万古から枯れない不満を「階層化する社会」という潮流に仮託して語ることを覚えた一年だと思われる。

これが日本社会の基層にどのような形で蓄積されていくか。米国のように、ひとたび自然災害の猛威が襲えばスラム地域に住んでいた下層住民ばかりが千人以上も死んでいく、偉大なる階層社会へと栄光の発展を遂げるのか。
現在の「勝ち組」「負け組」といった浅薄な価値観以上に、階層社会化は深刻である。生まれついてすぐ、構造的に自己の限界を規定されるのが階層社会であり、私たちは自らのアイデンティティの中に「階層」というファクターを常時刻印されながら生きていかなければならないだろう。
この5年は、米国に対してわれわれが持つイメージが、少なくとも文化的側面からいけば憧れの対象だった時代を終え、階層社会をはじめとして内部に深刻な矛盾を抱えた憂鬱な横顔の覇権国家というイメージへと書き換えられていった時代だともいえる。その痕跡は、「ボーリング・フォー・コロンバイン」をはじめとする一連のドキュメンタリー映画から、クリント・イーストウッドの眩いばかりの傑作「ミリオンダラー・ベイビー」でも見ることができる。
そうしたイメージの揺らぎは、国内では反・北朝鮮の流れとあいまって安直なナショナリズムに回収されていく傾向も見受けられるものの、おおむね、どこへ向かうとも知れない不安定感となって動き続けていると思う。
これが我が国の中で、次の5年、どのように形をなしていくのか。

期待と不安を抱きながら、2010年までの次の5年へと、年を越していこうと思う。

12月 26, 2005

「キング・コング」(★★★)

新宿オデヲンでピーター・ジャクソン監督「キング・コング」を見る。

1)・・・・・・長いよ。
2)髑髏島の原始時代シーン見てるときは、星野之宣の「ブルー・ホール」実写化って感じだった。
3)ナオミ・ワッツは良い。
4)映画の中に出てくる、1930年代ニューヨークにおける下層市民の貧困さが、なんか他人事じゃないように思えた。
5)ブロードウェイの劇場でコングが見世物にされてる時にオーケストラ・ピットで演奏してる音楽がマックス・スタイナーのオリジナル・スコアだったのが嬉しかった。(こういうのを品のいいリスペクトと呼ぶべき)

という以外のことを語れないのは残念。

仕事上の悩みが頭から離れず、ふと気付くと映画から離れてそっちのことばかり考えていたこちらも悪いのか、
いやいや、仕事ごとき忘れられるような力が映画になかっただけかも、などと、せんもないことを考えてしまいました。

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