欧州2国縦断記(その4)「美の咲き乱れる街にて、カメラ盗まれること Part:2」
サン・ピエトロ寺院に入場してすぐ右手には、かのミケランジェロが生涯に何作もつくった「ピエタ」のうち、最も著名な作品がガラス仕切りの向こうに鎮座しているのだが、これはもう各国観光客のフラッシュを浴びまくっており、とてもわが子キリストを襲った宿命をなげく聖母の静かな悲しみなどというものは伝わってこない。なんだか芸能人がハワイから帰ってきた時みたいな騒ぎだ。
むしろこの大聖堂で強烈に印象づけられるのは、教会という権威の過剰な荘厳化作用である。
たとえば天上はといえばどこを見上げても非常識に高いばかりで、遥か上方のドームにポッチリと開いた天窓から光が差し込んではいるもの、それらは神秘の雲と天使たちを描いた天井画ばかりを明るく照らし出している。
「かの至上の高みに位置する天国を思って祈れ」というメッセージが伝わってくるようだ。
まあ、この汚泥に塗れた地上から遥か天上の美を見上げて己を低めるというのは、決して悪いメッセージだとは私には思われないし、拝金主義よりはよっぽどマシな姿勢にすら思われるのだが、その気持ちをバッサリ打ち消してしまうのが、そこここに見られる歴代教皇の彫像である。

対抗宗教改革の時期につくられたであろうこれらの教皇像は、とにかくどれもこれも天使群など伴って大仰に手を差し出し僧服をハタメかせ、地上の汚濁をワレ今こそ浄化せんとばかりのパルスを放射させていて、もう見ているだけでゲンナリするような代物だ。これらの彫像の陳腐な外見こそ、ローマ・カトリックがかつて何ら世俗政治権力と変わることのない本質を持っていたことの証明であろう。
もし現代の世でカトリックがいま少し精神的指導力を発揮しようと考えるなら、さっさとこんなコケオドシはひっこ抜いて倉庫にでもぶち込んでしまったほうがよろしい。
旅をしていて何度か、イタリア人やフランス人が教会の中でみせる慎み深い仕草に触れて、信仰もないくせに勝手に感動する機会があったのだが、そうした感動に遭った時にこのコケオドシじみた教皇権力礼讃を思い出すと、なんとなく悲しい気分になる。
とはいうもののサン・ピエトロ寺院のもつ荘厳な効果はたいしたもので一見の価値はあると思うが、ヴァチカン美術館の方にはさらに見るべきものが沢山ある。とくにシスティーナ礼拝堂に描かれたミケランジェロ畢生の大作「天地創造」と「最後の審判」にはやはりドギモを抜かれた。この先も各都市で天井画は首が痛くなるほど見たが、「天地創造」のみなぎる躍動感は何かコイツだけジャンルの違う絵画なのではないか、と思わされるほどである。
観光客はみなポカンと口を開けて上を見たまま聖堂の中をウロウロしている。時折何人かの警備員が撮影を制止する声が聞こえてくる。広大なヴァチカン美術館内に展示されているほとんどの品はカメラでの撮影が許されているのだが、システィナ礼拝堂内だけは撮影禁止となっている。だがそんな禁止などどこ吹く風なのがアメリカ人観光客で、彼らは警備員がちょっとアッチ向いたと思ったら胸からぶら下げたカメラを天井に向けてブバシャアッと品のない音をたててフラッシュを焚きまくっている。
イタリアで最も観光客が多いのはアメリカ人そして日本人だと思うが、聖なる空間に土足で入り込む無遠慮な田舎者ぶりを隠そうともしないのも、やはりこの二者であるように思われる。
まあ、単に数が多いから目立つだけなのかも知れんが。
全部見るだけで一都市ぶん歩いた感じすらしてくるヴァチカン美術館を出て、サン・ピエトロの正面大通りをまっすぐ歩いていくと、左手にサン・タンジェロ(「聖天使」を意味する)の城が見えてくる。この城は、その美しい名前に似つかわしくもなく政治犯の牢獄として使われた歴史があり、スタンダールの「イタリア年代記」中の佳編「ヴァニナ・ヴァニニ」も、カルボナリ党の革命家ピエトロ・ミッシリッリがここを傷を負いながらも脱出し、ローマきっての美女ヴァニナの家に女装して逃げ込むところから始まるのだった。
この牢獄城は背丈の低い円筒形をしていてさながらラウンドケーキのような外見であり、ローマの建築物の中でも一度見たら忘れられない面白さだが、この時も一昨年の再訪時にも中に入る時間には恵まれなかった。次にローマにくることがあればこの中にあるという武器博物館もぜひ見てみたいと思う。
(この項さらに続く)
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